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幸福の落としもの

 落とし物が戻ってこなかったことがない。
 財布、ハンカチ、手袋、ストール、鍵、論文用の資料
 これまでいろんなものを落としたり置き忘れたりしてきた。
 しかし、二度と戻ってこなかったものは一つもない。

 落としたり、置き忘れた直後あるいは数分後には、その近くに居合わせた誰かが気付いて声をかけてくれたり、気付かずにかなり離れてしまった場合でも、わざわざ走って追いかけてきてくれて、私の元に届けてくれた。
 その人たちの性別や年齢、そして国籍もバラバラだった。

 つい最近も、信号が青から赤に変わる前の点滅をし出した時に、無理やり渡り切ろうとダッシュしたら、うっかりバッグに乗せていたストールを大通りのど真ん中に落としてきてしまった。

 私はいつも徒歩で外出する時は、目的地の直前まで音楽を聴くためにイヤホンで耳を塞いでいる。一人で外を歩く時はそれが欠かせない。しかもその時の気になる曲やお気に入りの曲を、歌詞の内容を毎回いちいち噛みしめながら聞いているので、かなり注意力が散漫になっている。
 その為知り合いとすれ違いそうになったりしても、ギリギリまで近付いてポンと肩でも叩かれない限りは気付けないことが多く、「見つけたからわかりやすく手を振ったのに無視された。冷たい」と何度か言われたことがある。
 無意識に、外部との繋がりをシャットダウンしているようだ。
 
 そんな注意力散漫な状態で大通りを突っ切っている途中に、どうやらストールを落としてしまったらしかったのだが、赤信号に変わってしまう前に渡り切ることに必死で全く気付かなかった。クラクションが鳴ったような気がしたが、心の中で(ああごめんなさい!)なんて軽く謝りながら走り切った。
 渡り切ったところで、スーツ姿の年配の男性が私に何か話しかけるようなそぶりをしていたような気がしたが、気のせいと思い通り過ぎた。そして少し通り過ぎたところで、20代前半くらいの華やかな雰囲気の女性が走ってきて私の肩を叩き、何かを話しかけてきて、自分に関して何かが起こったことを知り、イヤホンを外した。すると彼女は先ほど私が爆走してきた大通りの真ん中を指差し、「落としてますよ」と告げた。振り返ると大通りのど真ん中に私のバッグに乗せていたはずの黒いストールが落ちており、私は一瞬で顔が赤くなった。その日は少し派手目のワンピースを着ていたこともあり、変な目立ち方をしてしまったことにも恥じた。きっと走り方も変だったはずだ。
 信号が変わってしまったので、車に踏まれないことを祈りながら待っていると、向かいで信号待ちをしていた外国人の男性が、信号が変わる前に車が迫ってこないことを確認してから私のストールを拾い、走り寄った私に渡してくれた。
 私は関わってくださった方々に「すみません、ありがとうございます」と顔を赤らめながら何度も頭を下げ、呼吸を整えてから歩き出した。

 恥ずべきことをしてしまった割には、心の中にある種の幸福感のようなものが広がっていったことが忘れられず、今でもその余韻に浸っている。
 
 財布や鍵は戻ってこなかったら非常に厄介で困る。ストールも、数年愛用しているもので、無くして代わりのものを探さなければならないとなると少し気が重い。そんな、私に将来起こるかもしれなかった困難から、見知らぬ優しい人たちが救ってくれたのだ。
 と、事件(というほどのことでもないかもしれないが)直後にはそこまで考えもしなかったが、とにかく何か突然ご褒美をいただいたような、幸福感で満たされた日であった。ああ、もっときちんと感謝を示したかった。今頃あの人たちはそれぞれどこに向かったんだろう(思いを馳せ過ぎか)。

 他人は自分の思うように動くことはない(巷で”〜〜の心を動かすテクニック”みたいなものもあったりするが、そういうのを伝道している人は実はその通りにできていない)。他人に期待することをやめたら楽になるとよくいわれているが、それどころか幸福感さえ味わえる。

 だって、まさか他人が自分のために時間を割いたり頭を遣ったりして、こんなにも面倒で素敵なことをしてくれるなんて、考えもしないんだもの。
 それをしてくれたなんて、奇跡だわ。そして、なんて私は幸せ者なんだろう。そう、時々実感することができたら。

 あの人はこうしてくれるはず。だって私はここまでしたんだもの。と同等のものを求めたり、こうしてあげたら喜ぶはず。とお節介が過ぎるのはまた違う。そして、どうせあの人が動いてくれるわけない、してくれるわけない、と諦めるのもまた違う。それは互いに無理をしていることになるので、残るのは苦しみや憎しみだ。

 “前向きな無関心”が平穏な幸福を呼び寄せる。

 移りゆく季節の花と、人の心を、見つめながらしみじみ思う。

 

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