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【エッセイ】流す


何を流すのか?

 週末のゴキゲンな夜にちょっとアレだけども。
 私は普段あまり牛乳を飲まない。
 別に嫌いな訳では無いし、アレルギーがあるわけでもないし、よく言われるような腹を下すというようなことも今までにあまりなかったし、なんとなく食事の時なら牛乳よりお茶、食後に飲むなら牛乳よりコーヒー、早朝休日の朝も牛乳よりコーヒー、休日の夜は酒と水、という具合で単に牛乳をチョイスするというシチュエーションが生活の中に少ないというだけのことである。
 ただ、妻はコーヒーを飲む時に大量の牛乳を混ぜて飲む習慣があるため、当家でも牛乳はそれなりに消費している。
 先日、仕事中に妻から、牛乳を買い忘れたので帰りに買って来てくれという連絡が入っていたので、私は「はい」と返信し、購入して帰った。
 そして朝、朝食を摂る際に冷蔵庫を開けたらその牛乳が目に入って、特に飲みたかったわけでもないのだがなんとなくそれをマグに注ぎ、飲みながら食事をした。

 その後は皿を洗い、いつも通り相場をチェックし、noteでクリエイター諸氏の記事を読んでいたのだが突然、お腹でぐるぐると音がする。

 トイレに行くと、下痢である。
 冒頭でも書いた通り週末のゴキゲンな夜にアレだけれども。

 その後、そんな事が3回ほど。

 私はその都度しっかりと水を流した。人間として当然の仕事である。

 3回の下痢でやや疲労しやや呆然と流れていく水と排泄物を眺めながらこの。

 「流す」というテーマでエッセイを書きたいと思った次第である、いやしかし。
 安心していただきたいのは「トイレの水を流す」とか「恨みつらみを水に流す」とかそういう呪わしい事を書こうとしているわけではなくて流すのは主に「意識」。そういう事を書きたいと思った。
 流れるトイレの水を眺めて。
 牛乳を呪いながら。
 なぜ今日に限ってという疑念とともに。

 繰り返すが、普段の私は牛乳で腹を下すというデリケートなタイプの人間ではない。

現実と空想、そしてペテン師

 だいぶ前のエッセイにも書いたが私はアンチ・宗教、アンチ・スピリチュアル、アンチ・オカルトであり、見えるもの触れられるもの以外は信じないし「超常現象」と言われる理屈理論で説明のつかない世界は存在しないと考えている者である。

【エッセイ】アンチ不可思議論

 蛇足ながら、空想物語妄想物語夢物語暗黒物語不条理物語幽霊亡霊妖怪物語は大好きである。
 それは物語、エンターテイメント、ファンタジーであってきっちりと視覚化音声化等をして私の眼前におっぴろげられ、私が自らチョイスしてそれを手に取ることができる「モノ」で、それを家族や数少ない友人とわぁわぁ言いながら体験する愉しみを与えてくれるからなのだ。

 その空想妄想夢暗黒不条理幽霊亡霊妖怪が、人々の人生の路上地下に「現実」として存在すると断言し、しかしきっちりといつでも人々がチョイスして手に取る形で示すことができない謂わばなんの根拠も示されないまま単に人心の脆弱な部分を突き回すことで支配しようとする阿呆が嫌いなのである。
 キリストやブッダやアッラーやジャーはかつて「現実」に存在したのかも知れない、人として。そりゃ私やあなたが存在しているのと同じレベルで実在していた可能性というのはある。そこには何の問題もない。
 問題はその、実在したかもしれない単なる「人」に起きたと”言い伝えられている”しかし物理的な根拠に乏しい逸話を利用して、権力や銭に変えようとする浅ましい輩である。浅ましいペテン師共である。

ペテン師の餌

 しかしながらこういうペテン師の類が存在し、のうのうと行きている事実があるというのは、ペテン師にだまくらかされて餌となっている人がいるということで、不本意ながら需給の関係、相場原理が働いていると言えなくもない。需要がなくなれば儲からないのできっとペテン師はいなくなるだろう。
 そこで、ペテン師の餌になる人達の想いに着眼する必要がある。なぜならペテン師はその想いにつけ込むことで商売をするからだ。
 「餌になる人々」といちいち書いていると文章が長くなって「冗長だ」とか「文字数稼ぎ」とか「くどい」とか言われそうだし私も眼が疲れるし、こんな事に多くの時間を割くほどヒマでも無いのでこれ以降こういう人たちを単に「餌」と呼ぶことにする。
 「餌とは何だ失礼な!」と怒り狂う人よ、まず聴け。失礼じゃないよ。失礼なのは人を「餌」にするペテン師である。「餌」と呼ばれることが不快なら呼ばれないように努力せよ。真に失礼な者共を駆逐する努力をせよ。で。

執着

 ペテン師がつけ込む餌の思考の殆どは苦痛である。

 痛い腹が減ったお金がない家の鍵を忘れたPCが壊れたクレジットカードを悪用された逮捕された100歳の父親が死んだ105歳の母親が死んだ大根が高いネギが高い人参が高い下痢をした等々、挙げていけばキリが無くどこまでも挙げ続けられるような現実世界の苦しみである。
 人は苦しみが発生するとその苦しみに拘泥する。

『朝飯を食ったにも関わらず2時間経過した現在、俺は空腹で目が霞む。腹が減った。何か食いたいのだが今は業務中で職場を離れることはできず、では席についたまま手持ち弁当を早弁してやろうかと思うのだけど、休憩時間以外にそんな事をするのは就業規則に反して失職する可能性も秘めているしそもそも、いい年こいたおっさんが早弁て。そんなみっともない。しかしどうしてこんなに腹が減るのか?もしかして病気か?胃に穴が空いていてそこから食ったものがダダ漏れになり腹腔に撒き散らされてしまっているのかも。いやいやそれなら空腹以前に吐血失神しているだろう。でももしかしたら5分後に突然吐血失神しそのまま死ぬのかも知れない。ああ腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った。

ああ腹が減った』

 そりゃ内臓に穴が空かなくたって腹が減ることもあるだろう、食欲の秋だし。
 しかしこのように空腹に囚われた人間はもうそのことしか考えられない、どころか、腹が減るあまり根拠もなしに自分が何らかの病気でそれが原因で腹が減るというような妄想まで引き起こし不安にかられるのである。

 これはなにも空腹に限ったことではない。
 前述の通り、痛い腹が減ったお金がない家の鍵を忘れたPCが壊れたクレジットカードを悪用された逮捕された100歳の父親が死んだ105歳の母親が死んだ大根が高いネギが高い人参が高い下痢をした等々、様々なちょっとした日常の失敗や不具合、うっかり等が発生するたびにいちいちそれに執着し、そこから離れられなくなるのである。そして。
 そのこだわり、その執着にこそ、ペテン師共はつけ込むのである。

ペテン師

 曰く。
「地獄。というものがありましてな、その場所というものは今ままさにあなたが苦しんでおられるような、痛く腹が減りお金がなく家の鍵を忘れPCが壊れてクレジットカードを悪用された上なぜか逮捕される100歳のお父様が死んに105歳のお母様も死んでしまい大根は高くネギもまた高く人参は更に高い下痢も起きる等々、そういう恐ろしい場所なのでございます。でもご安心を、功徳を積めば良いのです。功徳です。しかし功徳を積むと簡単にいいますがこれはなかなかに大変なことでそれだけの苦しみから脱するような功徳を積んで積んで積み終わる頃にはきっとあなたはその苦しみの中で死んでいるでしょう。死ぬ前に苦しみから開放されたくて功徳を積んでいるその最中に死んでしまうのはさぞかし悔しいことでしょう。死んでも死に切れることはないでしょう、それなら」

と、ペテン師はいかにもコンビニでコピーしましたと言わんばかりのペラッペラで安っぽい小冊子を餌に差し出す。

「特別にこの功徳を差し上げましょう。この功徳には、あなたの人生500万回分の功徳が詰まっている。これを特別に5億円で売って差し上げます。いかがですか?なんなら墓も売りますよ。あなたが死んだあとこの墓に入れば、子々孫々、未来永劫、あなたの家系は安泰です。腹が減ることもクレジットカードを悪用されることも105歳のお母様が死ぬこともありません。たった20億円です。さぁ、さぁ!」

 押し売りである。冷静に見れば。
 ところが苦しみに執着して頭がおかしくなっている餌はこれに飛びつき、闇金からトイチで総額25億円を借り、10日後に支払う2億5千万円の利息が支払えずに苦しむのである。場合によっては憤死するのである。
 腹が減る苦しみをたった2時間我慢して正々堂々と昼飯を食えば全ては丸く収まったものを、その微かな苦しみに執着して人生に絶望した挙げ句、ペテン師に引っかかって命を落とすことになるのである。
 当然骨は20億の墓になんぞ入らない。
 幸せが手に入るどころか、何の根拠もない妄言に拐かされて、全てを失うのである。

解決策

 一番問題の在る存在。
 それはペテン師である。言語道断である。論外な存在である。論外なのでこいつの存在を消すということは解決策として選ぶに値しない。

 頭の良い人はすでに気づいていると思うが、最も手っ取り早くできる解決策というのは餌の思考の改革である。

 なにしろ苦しみへの執着。拘り。

 はて、ここでようやく本題に入るわけだが、それは。

流す。

 ということである。

 人間、苦しいものは苦しいわけで、苦しいことを避けようと思って家にこもったとして、そうすると収入が絶たれて別の苦しみが湧いてくるし、その苦しみを耐えながらそのまま引きこもっていてもどんどんと年をとって次第に老いの苦しみを味わうことになる。
 要するに、苦しみの中で生きているってのは当たり前のことなのである。

 ペテン師共によく利用される人としてブッダがいるわけだが、この人は瞑想の総大将みたいな人で、瞑想ということがなんだか宗教的スピリチュアル的オカルト的な雰囲気を漂わせていることからそうして悪党の与太話に使われるのだろうけど、瞑想ってのは完全にそうした思想的な部分を捨て去って脳波を測定した場合に、α波や人によってはθ波が検知できることが証明されている、案外根拠のしっかりしたリラックス法であって、ストレッチやウォーキングに近い類の行動であるので、その総大将であるところのこのブッダは謂わば、脳を休めるインストラクターみたいなものである。
で、そのインストラクターは瞑想によって苦しみを消すとも極楽へ行くとも死を逃れるとも言っていない。そんなことは不可能だから受け入れろと言っている。そして、最も大事なこと。

「受け流せ」

と言っているのである。

 苦痛を感じたら感じることを受け入れてしかし、その苦痛にとらわれずに流せと言っている。
 瞑想の中で、頭の中に浮かぶ全ての思考を受け流せと言っている。
 無になれとは一言もいってないし、むしろ無になるなんて無理と言っている。
 溢れ出る思考や感情を受け流せと言っているのだ。

 腹が減った。と感じる。
 そりゃ仕方がないよ、腹がへってんだからそう思うのは仕方がない。
 でも次。
 やっぱ腹が減ってる。
 あっ、そっ。でも次。

 そうして腹が減ったという思考を何度繰り返したとしても、それを次の新しい思考として捉えて受け流す。
 古い空腹を堂々巡りして執着を深めるのと、今の空腹を受け流して新規の空腹に切り替えるのでは脳の疲れ方が違うのだ。
 リフレッシュされた新しい空腹で思考がどんどん流れて行くようになれば、その流れに乗って空腹とは違う思考が現れるがその思考も流してどんどん新しくしていくと、情報の流動性が高くなって脳が活性化し、退行するような馬鹿げた執着から開放されていくのだ。

 週末のゴキゲンな夜にアレな下痢の体験から私の思考はこのように流れていたのである。

 これは私的な文章だ。
 私的な思考の垂れ流しだ。
 そりゃそうだろうエッセイだから。
 「随」に「筆」を取っているだけだから。
 誰のためになるわけでもなく、私が私の考えることをひとつに執着せずただ受け流しながら書き進め思考の流動性が高くなった今、「随」が停止したので「筆」を置く。

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