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自分の役割

人には役割というものがある。

それが自分の特性にあったものの場合、
適職という形になって、誰かの役に立てる。
また、自分が心から望んでいるものの場合、
天職として自分の生きがいを感じられるうえ、
誰かに対しても大きな影響を与えられるのかも。

私は女だから、家事をしたり看護師として人の
お世話をすることは割と得意な方で。
そういうことは適職にあたるのだろう。
だけど、本当に人にとって大切なことは、
『自由であること』だと感じている。

例えば、病院に入院している患者さんは完全に
『不自由』なのだ。
普通の生活さえ維持できない状態になっているから。
そこから、必要な援助をして、心も体も回復させて、
普通の生活に戻っていくお手伝いをするーというのは、
患者さんに自由になってもらいたいから。

病院という大きな施設が必要になるほど、
人は心を病んでいて、普通の暮らしも
できないほどに疲れ切ったり、苦しんだりしている。
それは、不自由とがんじがらめの間を行き来していて、
限界が来たら病院へというループの中いいるような
感覚さえする。

私は看護師の時にはそういう風に、患者さんを観ていた。

人は、もっと自由で感覚的に生きていていいもの
じゃないのか・・・?
と、思ってしまう。
もっと自由に自分らしさを制御されることなく
生きていても、大丈夫なはずじゃないのか??と。


インターネットの普及によって、たくさんの人が
今の社会の現状に疑問を持ち始めていて、
だんだんと生き方が変化しつつある中で。
私はやっぱり『自由な選択で生きていいんだ』
と言うことを実感してみたい。

私は教師家庭に育っていて、そのことも
『社会にがんじがらめにされている』と言う
意識が生まれる元になっていたと思う。
だから、我が家は兄二人も教師になっていて、
お国の制度に従い、右習え右が当たり前に
できなければいけなかった。
集団意識や従属意識がとても強いのだ。

そんな中で、私は上手くは生きられなかった。
苦しくて、どうも合わなかった。

人が色んなことに矛盾を感じながらも、
集団行動を重んじて、
そこにいなければならないと我慢を重ねることに、
私はどうしても耐えていられなかった。


だから、25歳で子供ができた時、
田舎へ移住して、社会から離れた。
その時は、とても反社会的な人間だったと思う。
だけど、そうしなければ、大切な何かが壊れそうだったし。
辛抱ではなく、我慢を続けることに意義を見出せなかった。

そして、その反社会生活も、
結局は無理が出てやめてしまった。
そりゃそうだなと今は思う。
人は、人のために何かを与えられる
ということが重要で。
社会を形成する生き物だから。

猿だって、あの猿の集団から離れたら、
生きていくのはとても難しくなるのだ。


だけど、誰かのためを想い合えることや、
生きるために協力するという、
本来の健全な集団意識ではなく。

自分を守るためや利益のために…
と、どこか人としての在り方から
かけ離されていくような集団意識
というのは、やはり間違っている。

今、孤立していたり、
うまく集団に適することできず苦しんでいる人たちは、
決して何かが欠けていたり、本人に不備があって、
そうなっているだけではないと思うのです。
もちろん反発してきた私のように、
本人に問題がゼロなわけではありませんが。


社会に人が合わせるという形ではなくて。
これから、より良く人との繋がりを広げていって、
社会というあり方の方を心ある人の方に
適応させていけたらと思う。

そのために、私はまずこれまでの自分の家族
という従来の形から抜け出したい。

新しい形で人と繋がりあって、
その場を心地よく維持できさえすれば、
きっと社会の中の最小単位である家族
という形くらいは変えられる。

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