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心中宵庚申[現代語版]4・近松門左衛門原作


4.

半兵衛は頭の中で直接半鐘を鳴らされたかの如くの衝撃を受けた。寝耳に水とはこのことである。自身はただ浜松へ実父の弔いに向かっていただけであった。むろん、養母が千代を快く思っていないことは知っていた。だからといって息子が遠出をしているうちに息子の妻を追い出すとは。門火を焚く木片のように胸が燻って燃えてしまう。それは養母への怒りよりも、自身がそれを止めることのできなかった無力感と悔しさの炭火だった。この家に辿り着いてからの千代の様子や家族たちの違和感に全て合点がいった。千代は養母の言葉を信じたのだろうか。信じたからこそ、ここにいるのだろう。離婚を言い渡したのが、自分だと。子供を宿した愛する妻を追い出すはずがないではないか。
「私が千代に離婚を言うはずがないではないか。お腹に子がいる妻に。と言うことすら嘘に聞こえるのか」
半兵衛は唇を噛んだ。元々は武士の出、それならば武士の生根を見せるまでだ。
「疑いを晴らす」
腰に刺した脇差を半兵衛は引き抜いた。かるは慌てて縋りついた。腹を切るつもりだ。千代も感付き、障子を勢いのままに開けて走り寄った。
「半兵衛さん、だめ!恨んでなんてないわ」
ふたりがかりで半兵衛に取り付くが、男の力はそれでも止めることはできない。
「父さん、一緒に止めて」
千代が病床の父に助けを求めた。
 平右衛門は騒がずにじっと半兵衛を見つめた。
「わしらに面目を保つために自害するならばそれで結構。自害すればよい。しかし、自害すればまた噂が流れるぞ、半兵衛。おぬしの養父養母のお二人に悪名が流れる。八百屋伊右衛門夫婦は嫁を憎んで追い出し、養子の半兵衛は自害したと。商売もし辛くなるだろうな。口々に取り沙汰される。よいわ。止めるな、娘。存分に自害するがよい」
静かな言葉に、茶碗が欠けて汁が漏れ出るごとく半兵衛の身体から力が抜けていった。脇差を落とし、身体を丸めて畳に額を擦り付けた。
「すまない、すまない」
悔やんでも悔やみきれない。
「千代、一緒に帰ろう」
「半兵衛さん、離婚は」
半兵衛は縋りつく千代の腕を取り、「死んでも離すものか」と抱きしめた。
「伊右衛門夫婦は気にいらないかもしれん。半兵衛、おぬしの心ひとつだ。それでも子供が喜ぶ顔を見るのは嬉しい。親というものは子供より老いるし、病を患っていつ死ぬか分かるものではない。千代のことはいつまでも気掛かりだ」
 平右衛門はかるに銚子と燗鍋に水を注いで用意するよう指図した。酒を交わす盃ではない。酒の代わりに水を交わすのだ。また会えるか分からない、そんな別れに交わす盃だ。
「半兵衛、水盃だ。ここに契約を交わそう」
ふたりは盃を酌み交わした。飲んでも酔わない水酒盛り。「命があればまた会おう」と口にし、平右衛門は盃をあおった。半兵衛もそれに続いた。
「かる、千代が戻ってくることのないように、門火を焚きなさい」
婚礼ならまだしも、まるで死人の出棺のようで不吉、とかるは心のうちで感じたが、父の言う通りに門火を焚いた。庭に焦げた匂いが広がった。その果てにあるのは、夫婦の儚き命の帰結か。「灰になっても戻るな」と平右衛門の言葉を背中に、夫婦は山城上田村を後にしたのだった。

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