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心中宵庚申[現代語版]3・近松門左衛門原作


3.

かるは嬉しげに「介抱をしててね」と千代に言うと、いそいそと障子を開けて台所に立った。
「ごめんください」
 表口から人のたずねる声がした。金蔵のように村の人間だろうか。幸い千代は奥の間にいる。かるは「どなた」と台所から離れた。玄関を開け、そこに立っていた顔を見たかるは胸の底から不快感を覚えた。
「あら、いらっしゃい、リコンさん」
皮肉たっぷりにその男を見た。千代の夫、半兵衛だった。わざわざここまで来て去り状を突きつけにきたのだろうか。
「突然訪れてすみません」
皮肉に気付いていないのだろうか、柔和な表情で半兵衛は頭を下げた。浜松に行っていると言っていたが、笠を持って旅姿であるところを見ると帰り道だろう。
「ご無沙汰しております。遠州へ父の墓参りに行っておりまして、帰り道に少し寄りました。皆さまお元気ですか」
真意を測りかねて、かるは口篭った。千代に会いに来た、わけではないのだろうか。
「よくお越しになって」
腹の中のむしゃくしゃを刺々しく出しながら、かるは当たり障りのない返答をしたが、半兵衛が門をくぐるところを止められなかった。半兵衛自身もかるの言葉に冷たい感触を感じていた。
 半兵衛が草鞋の紐を解いて玄関をあがろうとしたところに、奥の間の障子が開いた。「姉さん、お薬」と千代が顔を覗かせ、半兵衛と顔を合わせてしまった。最悪の状況だ、かるは苦々しく顔をしかめた。
「千代?どうしてここに」
半兵衛が言い終わらないうちに、千代は障子を固く閉ざして奥の間へ姿を隠した。半兵衛は状況を呑み込めないといった様子で「千代、どうして何も言わずに。おかるさん、女房はいつから」とかるに動揺しながら尋ねた。
かるは渇いた笑い声をあげた。
「あなたの心に聞けば?千代が口を聞かない理由」
半兵衛は血の気も失せ、顔を白くさせながら千代を追うように家にあがって、奥の間の障子の前に正座をした。「むう」と俯いて、言葉が出ないようである。障子の向こうでは平右衛門の声がくぐもって聞こえてきた。
「千代、何か本でも読み聞かせてくれないか。かる、かるもそんな所に居ずにこっちへおいで」
「ここで用事をしながら聞くわ」
かるは台所を放り、かるは障子の側に寄っていった。。
「お父様はご病気なのか」と半兵衛は尋ねかけ、口をつぐんだ。かるはその隣に静かに座った。部屋からは「伊勢物語、塵劫記、心中天網島、徒然、平家物語」と本の表題を読み上げる千代の声。
「かるがよく読んでいた平家物語が聞きたい。とくに祇王の段を読んでほしい」
「本当、ここはよく読んだ跡がある」
くぐもった様子から、千代が一冊の本を広げたことが分かった。
「母の刀自泣く泣くまた教訓しけるは、天が下に住まん者、ともかうも入道の仰せは背くまじきことであるぞ。千年万年と契るとも、やがて別るる仲もあり、あからさまとは思へども、存へ果つることもあり。世に定めなきものは男女の習いなり」
千代はひと息をつくと「本当に、その通りだわ」と呟いた。それは聞こえるか聞こえないかといった風で、涙ぐんでいる様子であった。それは平家物語であって平家物語ではない。平家物語を半兵衛夫婦に準えて読ませたのだ。清盛入道は半兵衛、祇王は千代。昔も今も、気が移るということはよくある話だ。
「憎いのは清盛だ。気に入らないことがあれば直させて一生を共にしてくれればよいものを。半兵衛、今でこそ町人とはいうものの、元は武士の出だろう。遠州浜松の山脇三左衛門の倅ではないか。自分は実父の弔いに浜松へ行き、その間に姑を使って家から追い出させるとは、義理も法もない。何が武士の果て。この人手なしめ。死んだ妻も向こうから恨んでおるわ」

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