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たったひと皿の苺

たまに、
「節約のためなら死んでもいい」
と言わんばかりの人を見ます。

大前提として、他の人の懐具合は知り得ないし、実際に節約しなければならない場合もあります。というか先のことを考えるなら、私こそ質素に過ごさなければいけません。経済的な視点は常に必要です。

ただ基本的にお金は、いたずらに貯め込むのではなく、生かして用いるほうが良いと思います。
誰かと分け合うことはとても大事です。わずかしか持っていないのに際立って寛大な人もいれば、沢山持っているのに出し惜しみする人もいます。

時には自分に寛大にすることも必要ですね。経験から学びましたが、自分が本当に本当に欲しいものを手に入れることも、精神衛生に大きく寄与します。(※無害なものに限りますけど)

私は、むやみに楽しみを削る人に出くわすと、森田たまの「もめん随筆」の一編「我儘散題」を思い出します。

寒中に、苺をたべたいと思ひついた事があつた。二十年ほど以前の話である。…土橋の和泉屋へ行けば必ずあるのだつたけれど、ただその値段が…たぶん一粒四五十錢位にはついたかと思ふ。二十粒で十圓…そして私はその時それだけの金子は持つてゐたのである。

当時、1圓(円)の貨幣価値はどれほどだったのでしょうか。
「もめん随筆」が刊行されたのは1936(昭和11)年で、単純にそこから20年遡ると、1916(大正5)年。
1913(大正2)年の企業物価指数が0.647と、現在とはおよそ1,080倍の差があります。1円≒1,080円。(出典はこちらのサイトです)
苺の件がそのデータから数年後の出来事らしいので、有意の差はないとみて、10円≒10,800円。

苺20粒10,800円…

それだけの先立つものはあった、と たまは書いています。誰にも迷惑をかけずに、苺を食べられたのです。
以下はこのようです。

だが、私のまはりの人は私がそれをたべるといひ出した時、途方もない事を思ひつく人間だといつて驚愕した。…まはりの人は云ふ。―それにもう十圓足せば西陣お召の上等が一反買へるではないか。…小粹な机や本箱や、それから又それだけの金子があればちよつとした旅行も出來る。…たつた一皿の苺、そんなものに費してしまふとはあまりに勿體なさ過ぎるではないか。

1万円は私にも確かに大きな額で、つい、
「それだけあったら何日食べられるか」
と考えてしまいそうです。いえ、考えてました。

令和の食は大正時代よりはるかに選択肢が多いですし、娯楽化しています。
ひと粒〇万円する苺も出荷されているらしいですが、その他の果物やスイーツにしても、各地に高級な珍しいものがあふれています。
あるいは外食の、コース料理とか食べ飲み放題に置き換えてイメージすることもできます。この居酒屋計算でいくと、何人分にもなりそう。

やはりいずれにしても、1万円を一度の食事やおやつに充てるのは、思い切りがいることです。
周りの人が、もっと後々まで使えるものや自分への投資になることに回せ、というのも、理解できなくはないです。
たま は納得するのでしょうか。

私がいま欲しいのは反物でもない、…机も本箱も、まして旅行など思ひもよらぬ事である。私はただ苺がたべたいのだ…まはりの人はいふ。百萬長者なら知らぬこと、身分がちがふよ。身分とはどんな身分?…毎日の事なれば心にかかりもしよう。時たま自分の自由になる金子を得て、それで一番欲しいと思ふものをあがなはうとするのに、それさへはばからねばならぬ世の中なら、それ程きゆうくつな世の中なら、私は生きてゐたいとは思はない。

苺を食べることが文字通り生死にかかわることは、ないかもしれません。
でも、念願の好物を食べて元気になる、明日から心をこめて生きようと思えるのなら、1万円の苺も本人にとって高いものではありません。
第三者から見て勿体ないか勿体なくないか、ではないです。

ほかの人はほかの人、わたしはわたし。ほかの人はほかの人の楽しみをとればよいし、わたしはわたしの楽しみをとればよい。お互に迷惑のかかる話でもないのに、なぜ私も他の人とおなじ楽しみをとらねばならぬといふのであらう。私はそれではすこしも慰められはしないものを。

当然ながら、その人の権利であるはずの「楽しみ」をとやかく言うのは良くありません。
相手への関心の裏返しに違いないのですが、現代でも田舎のコミュニティには往々にして、こういったお節介な視線が存在します。誰かのお金の使いどころが自分たちと違うと、それを指摘する人が時々います。褒めるでも批判するでもないような、そのどちらをも含むような、たとえば「また服買ったんだね」くらいの一言です。

人が食べたいものを食べ、着たい服を着ることに対してくらい、寛容になれたら、そのぶん自分も幸せだと思います。

「ほかの人はほかの人、わたしはわたし」
の一節が開明的。この時代の女性にしてはなかなかロックな精神というか…骨があります。けれど、いつの世も変わらぬ一つの真理です。
誰しも自由を与えられているのだから。

私も、その必要が全くないのに人の目を気にしている自分に、気づくときがあります。窮屈になって、思うように振る舞えないときには、この掌編を思い出します。


引用は「もめん随筆」(新潮社・刊)より。
仮名遣いは可能な限り原文のままとしました。


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