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小説

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或る本屋の記憶

或る本屋の記憶

 本棚の並びを崩す、いつも朝になると綺麗に整頓されている。誰が直しているかは知らない。私の決まりと、私ではない誰かの決まり。私がこう並べたいと静かに主張しては、誰かがまた元に戻す。いけませんよ、そう注意されている気がする。でもこんなふうに並べたら、本が輝くと思いませんか? 本はきっとたくさんの人に手に取って貰いたがってると思うんです。ええ、それでもですね、本棚に収容できる数には決まりがありますから

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君と僕

君と僕

 君が僕の前に現れたのは、晴れた日の夕暮れだった。よくある日常のなんてことない時間を忘れられないものにしたのは、君が全身ずぶ濡れでいたからだと思う。季節は春には近いものの、まだまだ寒くて三日前に降った忘れ雪がまだ道端に残っていた。
 君はがちがちと震えながら、「落ちた」と言った。
「何に、落ちたの?」
 僕が怖々聞き返すと、「川」そう答えた。

 よく見ると君の足元には子連れの猫がいて、「こいつら

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あなたの名前で生きてみたい

あなたの名前で生きてみたい

 離婚をして名字が変わった。結婚してたのはほんの数年だったのに、生まれ持った名前よりよっぽどしっくりきてた気がする。
 別れた旦那は対して事務手続きをせずにいられるのはずるいなあと、結婚するときも思った。男女どちらかの名字で生きればいいだけなのにどうしてほとんど女性が名前を変えるのだろう。

「牟田さん、この書類間違ってましたよ」

 ふいに名前を呼ばれて、そうね、私は旧姓に戻ったんだとしょんぼり

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いつのまにか夜

いつのまにか夜

 ハロー真夜中。今日も私は眠いです。月曜日から金曜日まで絶賛勤労日和です。週末は充電、摩耗するまで睡眠、起きたら大抵日が暮れている。
 そんな私の毎日の楽しみはお菓子を食べること。チョコレートもプリンもいいけど、心待ちにしているのは季節に合ったお菓子を食べることだ。
 こどもの日の柏餅、真夏の白くまアイスにガリガリ君ソーダ味。秋は焼き芋、冬はたい焼き、ハーゲンダッツの限定味。食べようと思えばいつで

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月のお医者さん

月のお医者さん

 その診療所はいつも閉まっているので、誰もが営業してないものだと思っていました。

 住宅街の大通りから小道をいくつも曲がった先にその診療所はあります。広めの駐車場と、平屋建ての建物。高台にあるので、港が見渡せます。

 診療所のある街は、小さな地方都市で若い人は皆働きに出てしまい、住んでいる人は高齢者ばかりです。そんなところにあるのだから、繁盛しててもおかしくないのに、全然診察をしている感じがし

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おかあさんのパン

おかあさんのパン

陽介は学校帰り、まっすぐに家に帰ります。急ぐことはないのに、走って帰ります。それには理由があるのでした。

 陽介の実家はパン屋を営んでいます。父親は幼いときに死に別れているので、亡き父親の店を母親が継いで切り盛りしていました。

 兄弟は下にふたりいて、まだ幼稚園です。小学四年生の陽介が、弟ふたりの面倒をみるのです。

 いつも母親は温かい汁物を鍋いっぱいに作ってくれます。そして、売れ残ったパン

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その焦げ目が美味しい

その焦げ目が美味しい

 僕は自分の母親がとても料理が上手かったから、女の人は誰でも料理が出来るんだと思ってた。だから今の彼女と一緒に暮らして初めてそうじゃない人もいるんだと知る。

「しまった、焼きすぎちゃった」

 それが彼女の口癖だった。彼女は単調な料理しかできない。目玉焼きが真っ黒焦げで出てくる。ハンバーグは固くて箸が通らない。アジの干物はまるで消し炭のようだった。

「どうしたらそんなふうになるの」

 僕は本

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味子の噛み癖

味子の噛み癖

 味子は人形。人形のような子供。年は五つ。オカッパ頭に着物を着て、てとてと歩く。金持ちの祖父の趣味で集めたアンティークをおもちゃ代わりに暮らす。
「俊明さまは、味子が嫌いなんですの?」
「どうして」
「だっていつも遊んで下さらない」
「僕だって忙しいからね。大学もあるし、そろそろ家業の勉強も始めないといけない年頃だ」
 味子は僕の従姉妹にあたる。本来なら味子の両親が実家の旅館業を継ぐはずだったが、

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ポケットにカレーパン

ポケットにカレーパン

 人生ってポケットに似ている。

 入れすぎると膨らんで不恰好になるし、ないと不便。

 何をポケットに入れるのかは人それぞれだけど。大抵仕事だったり、人生の伴侶だったりする。

 私の場合は、焼きたてのパン。それもカレーパン。

「あたしはね、ポケットは無限にモノが詰め込めると思ってたの。だから何でも目一杯詰め込んだ。仕事の予定、遊びの予定、お酒に海外旅行。男遊びも沢山」

「へえ」

 私は友

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アマビエ・クリスマス

アマビエ・クリスマス

「クリスマスって何のためにあるのかな」
「どうしたの急に」
「なんか気になって」
 私はキッチンでタンドリーチキンを焼いていた。ヨーグルトと香辛料に漬け込んでなかなか本格派である。新型コロナウイルスの影響で自粛生活も三ヶ月近くになろうとしていた。
「本当にね、牧くんと一緒じゃなきゃこの生活乗り越えられなかったと思う。誰にも会えないっていうのがこんなにもつらいと思わなかった」
 牧くんは五つ上の大学

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三月の街角

三月の街角

 新型肺炎で街が静まり返って、ところどころ人がパニックになって、ところどころ世の中がひずんだりする。僕らの卒業式は延期。だからいつまでも高校生なんだと思う。明日着る予定の詰襟、袖を通すのは最後のはずだったけど、延期が続く限り、僕らはこれを着て街に繰り出す。桜が散っても、夏が来ても、きっと僕らは高校生のままだ。僕らは進学することもないし、水たまりで泳ぐオタマジャクシみたいに水から陸に上るタイミングを

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秋が深まる

秋が深まる

 会いたい時に会えないのは寂しい、そう言ってあなたは泣いた。寂しくて耐えられないから別れたいと言った。今なら幾らでも方法はあって、ビデオ通話なり手段はあるはずだって僕は諭した。週末は必ず会いに行った。片道三時間掛けて、電車の中で文庫本二冊を読破した。そしてその日読んだ本の話題を必ずした。あなたはそれが却って苦しかったのだと泣いた。僕だけがあなたとの距離を楽しんでいる。いつだって隣にいて欲しいのに、

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怠惰

怠惰

 生きているのが苦しくなってきたので、あなたに手紙を書くことにしました。どうぞ読み捨てて燃やしてやってください。

 私があなたと知り合ったのは、場末のバーで、ちょうど酒が回ってきた夜の中程だったと思います。今から十年程前でしょうか。私はまだ若かったし、一人で酒を飲んでいれば男の人がちやほやしてくれるのもわかっていました。それが楽しくもあり、虚しくもありました。

 私には当時恋人がいて、飲む、打

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