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あなたの名前で生きてみたい

 離婚をして名字が変わった。結婚してたのはほんの数年だったのに、生まれ持った名前よりよっぽどしっくりきてた気がする。
 別れた旦那は対して事務手続きをせずにいられるのはずるいなあと、結婚するときも思った。男女どちらかの名字で生きればいいだけなのにどうしてほとんど女性が名前を変えるのだろう。

「牟田さん、この書類間違ってましたよ」

 ふいに名前を呼ばれて、そうね、私は旧姓に戻ったんだとしょんぼりする。子供の頃から、やーい、グレートムタとからかわれて散々な思いをしたこの名前。結婚生活は破綻していたから離婚したことに疑問はないけど、旧姓に戻るのに抵抗がないと言えば嘘になる。
 しかめっ面をして、差し戻された書類を睨んでいると、後ろで「そこそんな時間かかります?」と声がした。

 デスクの後ろで同僚の関根くんが控えていた。
「ごめん、待ってた? すぐ終わらせるから」
 手早く修正をして手渡すと同時に訊ねてみた。

「関根くんは別人になりたいと思ったことない?」
「はい、何ですか?」
「私先日離婚したのよね、知ってる? 離婚って壮絶面倒くさいの。名字変わっただけで察してくれる人もいるけど、首突っ込んでくる人もいるから」

 関根くんの表情が曇った。壮絶面倒くさいのは間違いなく私自身だろう。でもやっぱり言いたい、私は別人になりたい。

「なんで離婚したらバツイチっていうのかしら、そんなに縁起悪くなんてないわよ。相性が悪かっただけなんだから。それがわかっただけでも前進したと思うの。人生は一度きりなんだからくよくよしてたって仕方ない。だからね、離婚したら旧姓に戻るんじゃなくて、結婚してた姓を名乗るんでもなくて、改名出来るといいと思うのよね。独身、既婚、また独身とステップアップして来てるのよ、ほら」
「何がほらなんですか、よくわかりませんよ。牟田さん自分の名字が嫌いなだけなんじゃないですか?」
「それもまああるわね」
「ほら、サボってないで仕事仕事」
 関根くんは逃げるように去っていった。

 でも自分では名案だと思うのだ、人生のライフステージによって好きに名前を名乗れたら、真新しい気持ちになれるんじゃないだろうか。戸籍や銀行口座なんてマイナンバーで管理すればいいし、家族でも男兄弟は皆同じ名字で、嫁いだ嫁や娘ばかりが違う姓を名乗るのは家族の分断な気がする。
 離婚したばかりで今更家長制度に囚われるのも嫌な話だけれど、なんだろう、なんなんだろう。結婚って。当人さえ良ければいいものではないのは短い結婚生活でも痛感した。

 でも機会があれば再婚したいとも思う。そしたら、私は次も相手の姓を選択するのだろうか。どちらの名字もしっくり来なかったらどうしよう。私は名前に対していい思い出がなかったから余計気にしてしまう。素敵な響きや漢字を持った友人がいつもうらやましかった。正直なところ、前の旦那は名前で選んだと言っても過言ではない。
 私は今度は向かいの席の佐々木くんに矛先を向けた。

「ねえ、佐々木くんは自分の名前好き?」
「さあ、どうですかねえ、どこにでもある名前だから説明しやすくて便利くらいですかねえ」
「ねえ、男の人ってさ、自分の名字そんなに好きじゃないから、奥さんの名字名乗ろうとか思ったりしないの?」
「どうなんすかねえ、少数派じゃないですか」
 意に介さぬといった返答で、私は佐々木くんを追求するのをあきらめた。

 なーんでかなあ、私だけなのかしら、こんなにも名前に縛られているのって。私は一人娘だったから、両親は自分たちの代で墓じまいをするのだろうと思っていた。そこに私が出戻ってきたからこないだ実家に顔を出せばいきなり、あんたもあそこの寺の墓でいいわよね、といきなり葬式も飛び越えて墓に入る入らないの話になってしまった。
 牟田家先祖一同には数知れない恩があるけどまだ仲間入りはしたくない。

「芸能人になろうかな、そしたら芸名名乗れるもんね」
 ぽそっと呟くと佐々木くんがハイハイと心のこもらぬ相槌をして終業時刻になった。

 離婚して借りたアパートはほとんど荷物がなくて住んでる温もりがない。私は今の生活は借り暮らしだと思っている。また素敵な恋をして、いつか再婚をするのだ。

 そうして素敵な名前を手に入れていつまでも幸せに暮らすのだ。もしかしたら、離婚も結婚も一回では終わらないかもしれない。そんな予感がするほど、私の名字に対する執着心は桁外れな気がする。一周回って自分の名前が素敵に思えるようになればいいのに、あなたの名前素敵ですね、そのひと言で全てが救われる気がする。
 そんなことを夢見ながら今日一日が過ぎてゆく。


#小説 #創作

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