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ナンシー関と思考停止の私たち

イトウハルヒ

先日いつものようにTBSラジオをかけ流していると、こんな掛け合いが流れてきた。

"ナンシー関という伝説のコラムニストがいましてね、芸能界の辛口な批評をすることで有名だったんです。代表的なのはヤワラちゃんの選挙出馬を15年も前にピタリと言い当てたこととか。""へえ。""とても慧眼な方だったんですよね。ヤワラちゃんがオリンピックで私は10連覇の偉業を達成しましたという発言に対して、当事者は偉業を達成という姿勢はないものと思いたいと言ったのも彼だった。そのくらいからスポーツ選手が自分でメディアが取り上げるような姿勢を自分から称していくような雰囲気が出来上がってきた。"

ラジオはこう続いていく。

"夏の季節ものの番組とかもあるじゃないですか、感動をありがとうと感動することを定められているものが。昔TBSのアトランタオリンピックの宣伝で「感動まっしぐら」という文句があったんだけど、ナンシーさんは「感動させて欲しいという謙虚な姿勢の裏に作り手のエゴが見える。(タレントやコメンテーターが)別に泣きながら全然面白くありませんでした、って言ったっていいじゃないか。感動なんてあら探しをしてはい、って持ってくるもんじゃないだろう」と一蹴したんですよね。""同調圧力のような感動、ね。""そう。テレビとかは影響力が強いからそのメディアの姿勢がなんとなく国民全体のテンションになってくる。でもナンシーさんはそういう姿勢に感動をありがとうとか感動まっしぐらとか人の感情を他人の家に土足で踏み混んで統制してくるんじゃありませんわ、と突いてくれるんですよね。"

なんだか、ぞっとした。

私は1日中メディアを見ている。Yahoo!ニュースで取り上げられるセンセーショナルな社会的事件も、荻上チキのニュースから流れる国会のハイライトも、今バズっているインフルエンサーの写真も、友達の今日のお昼ご飯も同じ粒度で閲覧し、把握している。完全な情報過多だと思う。それはこの皆がそれぞれにデバイスを持ち、メディアを自由に閲覧できる時代において、きっと私だけでは無いはずだ。

情報過多だと分かっているのに、より多くの情報を得ようとしてしまう理由、それは思考の停止に他ならない。私たちはぼんやりと思い浮かんだ感情や感想を言葉にする労力をかけない。そりゃあそうだ、誰だって人参と玉ねぎとじゃがいもとルーを入れれば無料ですぐにカレーができるツールがあれば飛びついて使うだろう。それと同じだ、わたしたちは思考の方向性や断片的な材料を元に思考を他人に作ってもらっているのだ。
楽だもん、仕方ない。

私たちはなんとかしてGoogleの検索エンジンから、TwitterのRTから、BuzzFeedのニュースから自分の感情・思考を代弁してくれるテキストを探している。そして、他人の作ったテキストを自分の言葉だと信じ込む。

そうして、他人の言葉を自分の思考と捉えることに違和感を失くしてしまった私たちは、おそらく無条件で自分の外側から設定されていく価値観に慣れてしまった。思考停止状態が長く続けば続くほど、マスメディアの啓蒙的な宣伝や多くの人が支持(シェア・いいね!)しているテキストによってトレンドの価値観を受け入れやすくなってくる。例えば、東京オリンピックの開催はどうだろうか。多くの企業やテレビなどのマスメディアがオリンピック開催に向けて躍起になって歓迎の旗を振っている中、私たちは本心からそれに共感しているだろうか。本心からオリンピック開催を楽しみに、心待ちにできているのだろうか。

他人の思考を自分のものに置き換えることには、もう1つのメリットがある。共感が生まれることだ。

共感がもたらす作用は強い。

「こうだよね、」「そうそうわかる!」という応酬は発信者も受け手も双方ともに安心するし、敵を生まない。共感がつなぐコミュニティは味方しかいないユートピアになる。もう安心だ。
共感の数が大きくなればなるほどその考えに共感することへの安心感は肥大し、その安心感が大きくなればなるほどその共感に反対することの恐怖も増大する。

私たちが安心感を求めて無意識のうちに他人の言葉をなぞるとき、こうあるべき、という圧力も形成されて行く。

こうあるべきという目に見えない透明な力は、空気のように私たちの周りに漂って生活に溶け込んでいる。私たちはしらずしらずのうちにそれを吸って、吐いてを繰り返して、身体に浸透させて行く。ただ、忘れないでほしい、外から作られる価値観に一方的に従順してしまうことは私やあなたのアイデンティティを失ってしまうことにつながる。

私たちは、マジョリティが、マスメディアが、世間が、他人が、作り上げた良しとする共感を黒幕にした価値観にただただ便乗していないか。

***

人の感情を他人が土足で踏み込んで統制するもんじゃありませんわ、

15年前のナンシー関さんはそうやって世の中を刺した。私がその言葉に付け加えるとしたら、
「自分の感情に他人が土足で踏み混んでいるのをヘラヘラ笑って見ているんじゃありませんわ、」

自分の思考を他人の言葉に頼る安心感から一緒に抜け出してみませんか。抜け出した先は調査兵団もびっくりの荒地かもしれないし、エデンの園のような楽園かもしれない。誰も予想がつかない。しかし、情報と共感の波に飲まれる人から自分にとって必要な情報を選ぶ人へ変化できるはず。

24時間テレビの作り出す感動に、カメ止めの作り出す面白さに、オリンピックの作り出すお祭りに、面白くないと言っても問題ないはず、

いっしょに、自分の言葉で生きてみませんか、


読んでいただき、ありがとうございました
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