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#23 普通という、実態のない拘束具

こんにちは。sacaikumiです。

この「考える」マガジンでは、私が関心を持ったトピックを幅広いテーマで自由に書いています。

先日友人のnorahiちゃんからの薦めで、映画「わたしはロランス」を観ました。カナダ人のグザビエ・ドラン監督が若干23歳にして制作した映画です。3時間弱に及ぶ長編としっかり向き合いたい気持ちが先行して、お勧めしてもらってから長らくあたためていたのですが、コロナによる自粛でまとまった時間もじっくり考える時間も今以上にある時はそうないと思って鑑賞しました。

本記事では、映画を通して考えた自分らしさと普通とは何かについてまとめました。

*一部映画のネタバレを含むため、ネタバレを避けたい方は是非先に映画を鑑賞してからご覧ください。

自分らしさとは

わたしは身体も心も女性として、そして山のような外見のコンプレックスを抱えつつも客観的には可もなく不可もないふつうの外見に生まれました。

平凡。ふつう。Nothing special。凡人のプロといっても過言ではありません。

それだけ聞くと、まるで安いワインのような、とてもつまらない人間のように思えます。わたしも自分の外見がふつうすぎてつまらないなと長年思ってました。若い頃は自分のコンプレックスが全部消えた理想の姿に何度も憧れました。特徴その1に「美人」が来る見た目なら良かったと何万回願ったことか!

当時のわたしが自分のコンプレックスを打ち消すためのものは、時に洋服だったり化粧だったりしました。

目を大きく見せるためにアイライナーで目のフチを真っ黒にしたり、まぶたにテープを貼って二重の線の位置を変えたり、眉毛を思い切り減らしたり…洋服だったら、体型を隠すようなだるっとした服を着重ねたり、個性を求めてへんてこな形の服を選んだり…ちいさな単位で、自分が持って生まれた身体のかたちに反抗し、その特徴のひとつひとつを否定的に扱っていました。

でも、わたしは歳を重ねていく上で、少しずつ少しずつ、自分自身のことを好きになっていきました。

わたしがわたしを好きになれた一番の理由は、形のない自分自身のおかげ。たとえばこのノートに残された文章、声、性格、書く字、心の在り方、選び取る本や映画や音楽、趣味、仕事の成果など…わたしを取り巻くわたしらしさは決して身体に限定されたものではありません。そして今のわたしはそんなありとあらゆるわたしの要素たちを心から信頼し、不完全な部分も含めて愛しています。

長い時間を掛けて出来上がっていったわたしという見えない軸は、他人からの目を気にして生きる心をもまた癒してくれました。客観的にみて美人とは言い難いかもしれないけど、わたしなりに努力することで、自分の心が喜ぶ、自分なりの綺麗を身体と共に見つけたいなという気持ちで生きられるようになりました。

でももし、この映画の主人公ロランスのように、わたしという軸にしたがって生きようと思った時に、オーディナリーパレードを外れて生きなければならないとしたらどうだろう、、?

オーディナリーパレードっていうのは造語で、んたしたちが成人していく上で社会から染み込まされてしまった、○○はこうあるべき、という暗黙のルールの大行列のこと。誰が決めたわけでもなく誰に罰せられるわけでもないのに、わたしたちの多くがお互いの監視カメラのようになり、わたしたちの多くがこの枠の中で生ききれるわけではないのに、このルールから外れることを恐れて生きてしまっているもの。

そしてこのパレードから外れると、監視カメラに捉えた人たちは瞬く間に噂します。

映画の中で、男性の身体で生まれ女性の心を持って生まれたロランスは、自分の心に従って女性的な装いに生まれ変わることを決意しました。しかし女性としてのロランスを見る人々の目はまさに「監視カメラで異物を捉えた」時の目。

この状況を映画の中でロランスの目線で過ごした時に感じた深い孤独は、心をきりきりと締め付けました。

本当の自分を否定することと社会から否定されること、どちらを選んでも別の側面で苦しい

でも、本当の自分と社会の中の自分が相反してしまう経験、意外と皆が抱えてるのではないでしょうか、、。

本当はパンクな服が好きだけど、会社にはかっちりとしたスーツを着ていっている会社員。

本当は恋愛になんて興味がないけど、周りの声に合わせて取り敢えず恋人作らなきゃと焦る若者。

本当は人に弱みを見せたいけど、頼りになる貴方が素敵だからと恋人に言われて本当の自分を見せないまま付き合っている人。

わたしたちにとっての「本当のわたしの姿」が社会、家族、恋人に受け入れてもらえないという孤独、実は結構身近に散らばっています。

わたしは冒頭でも書いた通りプロの凡人ですが、少ないながらも世の中の「普通」の枠の外を生きた経験もあります。

母が若くして他界したときは多くの大人達が「親のいない可哀想な子」という哀れみの目で見てきたし、総合大学を卒業したもののデザイナーになりたかったので、新卒入社と嘘をついて数年アルバイトという形態で働いてました。(当時は嘘をついてごめんなさい。)

そのとき、わたしもやっぱり皆の罪のない監視カメラの目が怖かった。
もし当時のわたしがアルバイトしてるって正直に言ったら、大学までの学費を支払った父はどれだけ悲しむだろう。煌びやかな大手企業に入社した友人達はどんな風に噂するだろう。
もしここで母親が居ないと言ったら、相手に謝らせて気まずくさせちゃうから言わないでおこう……

わたしたちが止むを得ず「普通」を外れたとき、他人が取る無意識の反応は、想像以上に当時者を傷つけてしまうんですよね…

そして、わたしたちは己の「普通」の枠の外を生きる苦しみを乗り越えたとき初めて、他人の心の痛みを学びます。

だからわたしは、明るくて優しくて今何不自由無く恵まれて生活しているように見える人でも、その斗出した明るさと優しさの奥には大きな苦しみを乗り越えた過去があるんだと考えるようにしています。

愛がすべてを変えてくれたらいいのに

映画の中でふたりは、恋人としての関係を解消します。

映画の見えかたとしては、ロランスが女性として生きることに決めたことによって生まれた社会の圧という苦しみが二人を締め付け、その問題を一緒には乗り越えられなかったようにも見えるけど、この二人はそれが無くてもいつか別れてしまったんじゃないかな、、とわたしは思ってしまいました。

人は少しずつ本当の自分を隠しながら恋人と過ごしたり、あるいは長く付き合っていく中で昔と違う価値観を育てていったりするものだから。

心がすれ違っていった様は良い意味でふつうのカップルとして描かれていた所がとてもリアルだなと思いました。

映画のコピー「愛がすべてを変えてくれたらいいのに」もまた、エクストラオーディナリーには依存していない所が素敵。本当にね。愛がすべてを変えてくれたら良かったのに、という経験…ないですか?

彼らの恋人関係だけはどの状況においてもとにかくふつうのカップルだったということを映画を通して伝えたかったのかな…と感じました。

どんな装いに身を包んでいようとも、どんな性別の掛け合わせだろうと、愛しあう二人の関係は、あなたとわたしであること、それ以上でも以下でもありません。

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わたしたちは皆ふつうだし、皆ちょっとずつ「普通」からはみ出して生きてます。集団で社会を作る上でもちろん必要な常識もあるけれど、お互いはみ出してしまうこともあるわけだし、寛容に生きていけたらいいですよね。

何年か経ったらまた観てみたいな、と思う映画でした。わたしが変わった分だけ見えかたが変わっていきそうな、奥行きのある素敵な作品が大好きです。

Special Thanks: norahiちゃん❤︎



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