07/07/2020:『Free Fallin'』
手動で開閉するサイドウィンドウはハンドルが取れてから、きっともう何年も経っているのだろう。運転手は気にするそぶりも見せずに、3分の1くらい窓を開けっ放しにしたまま走っている。町を出るまではギアチェンジの度に力むような音がしていたエンジンも、幹線道路に入ってからは割りかし問題なさげに動いている。
日が傾いてきて気温が下がり、風が心地いい。
僕はミラー越しにバックシートを覗いた。
・・・
ストライキが起きてから僕は身動きが取れなくなっていた。バスが動かなければ旅も続けられない。日程に押され、無理やり宿を引き上げてバスターミナルに来てみたが、地元の人や旅行者でごった返していた。地面に埋め込んで立てた白い壁に、糊でつけたような青い柱と梁でできた建物は、ところどころ塗装が剥げていて、修繕するよりも建て直したほうが早いくらいに歳を重ねていた。
「やっぱりか、どうしよう。」
諦めつつロータリー前のコーヒースタンドに立ち寄った。
「もう一人で出発できるが、お前さん、乗るかい。」
ヨレヨレのポロシャツにビール腹で新聞を読んでいた男はヤニで茶色くなった歯を見せて笑った。客待ち中だったコレクティーボの運転手だ。
「今すぐ出る。荷物を積んでくれ。」
人に頼んでおいて、おまけに返事も待たずに彼は僕のバックパックをトランクへと放り込んだ。
すでに先客が二人いた。僕と同じくらいの世代。金髪碧眼のシャープな彼と、膨よかな黒髪を耳にかけた薄い唇の彼女。遠距離恋愛をしている二人はこの国で待ち合わせて旅をしているらしい。
「お前は助手席だ。」
彼はバックパックをそうしたように、僕を隣に放り込んだ。
カップルに軽く目配せをすると、爽やかに返してくれた。
・・・
出発してからずっと、金髪の彼は大きく口を開けて眠り続けていた。挨拶程度に身の上話をしたところによると、二人は医者でそれぞれの国で忙しく働いていて、いつか二人で暮らしたいと思いながらも中々実現できず、もう2年ほど離れて暮らしている。そして、最近、渋々彼女が彼の国へ行くことに決めたらしい。
粘り強く居座り続ける夕日はまだ十分に道を照らしていた。運転手は最初に出会った時のイメージと違い、真面目にハンドルを握り前を見つめている。仕事にはプライドを持っているのだろう。とてもいいことだと思った。
彼女は体を乗り出してきた。揺れるピアスが運んでくるほのかな香水の香り。
「あとどのくらいで着くのかしら。」
「暗くなる前には着くさ、なぁ。」
と、運転手は僕に聞いてきたが、知ったこっちゃない。
「そうだね。でも少しタバコが吸いたいかも。」
「私もちょうどそう思ってたとこよ。」
ボロ車を現れたガソリンスタンドに停めると運転手はトイレへと向かった。僕と彼女は外に出て、スタンドの脇にあるバス停に腰掛けタバコに火をつけた。
何千万キロも離れているはずの炎に触れそうなくらい、それくらい大きな夕日だった。
「よかったの、起こさなくて。」
彼女は首を振るだけで、口から白い煙を吐き出した。
風に吹かれて稲が揺れている。熱帯地域の田園風景。田んぼを突っ切る幹線道路は何にも遮られないでずっと伸びていく。
「彼のことを愛しているのは確かなのだけれど、私はなんだか不安だわ。」
「それは、俗に言う、」
「マリッジブルーとは違うの。だってこの2年間、ずっと感じていたのよ。この人生を賭けることに見合うのかしらって。いつもいつも考え続けてきた。2年間よ。私たちは同じペースで、同じ駅を目指して走ってきた。ただし、それぞれ違うレールの上をね。そしてこうして時々旅に出ることで、色々と微調整をしていたの。途中の駅で荷物を積み降ろしたり、油を注したりね。今、そのレールが一つになろうとしている。でも、列車は二つ、私と彼。並んでは走れないわ。」
一度連結した列車は同じ線路の上では横に並ぶことはない。どちらかが引っ張るか、押すかしながら連なり走って行くしかないのだ。
「どこで現れるかはわからないけど、途中の駅できっと切り替えがあるよ。そこで前後交代するのも悪くないんじゃないか。そして駅というのは必要な時にしっかりと現れてくれる気がする。」
僕はずっと一人で走ってきたので、横並びの感覚も、連結の感覚も彼女ほど生々しく感じることはできなかった。だから縦でも横でも誰かと走れること自体が羨ましい、そう伝えた。
「そう?私はまだ並走しながらも一人で走りたいと思っていたわ。でも、どうやら駅まで着いてしまったみたい。ここで連結しないと、その先の線路はしばらく一人よ。並走なしの、一人。」
タバコが短くなってきて、彼女は最後に深く吸い込むと、長くゆっくりと煙を吐いた。僕らが向かって行く方向へと煙は流れ、消えていった。
クラクションが鳴った。そろそろ出発だ。
彼女は奥の方を見つめ、
「あなたも今、レールの上にいるのよ。それを忘れると、気づいた時には駅を通り過ぎちゃうわ。」
と、静かに話した。
僕らは車に戻った。彼は目を覚ましていて、その腕の中に彼女を包み込んだ。
夕日が車を照らす。
助手席の僕に運転手は、
「そういえばお前はどこまで行くんだったっけ。」
と、聞いてきた。
バックミラーを見た。彼女は彼の腕の中から僕を見つめていた。
「この道はどこまで続いてる?」
車は走り出し、僕はサイドウィンドウを無理やり押し込めるようにして下げた。
田んぼからの風に前髪が揺れて視界が広がる。
くたびれた幹線道路には僕らの車一台きりで、後ろ目のガソリンスタンドに明かりが灯った。
「どこまでも続いてるさ。」
運転手は笑いながら答えた。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
風を受けて、斜めに落ちていく。ゆっくり、ゆっくり。
『Free Fallin'』。John Mayerのカバーver.で、どうぞ。
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