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薄墨の街 下 斎藤緋七

私の一人娘のあかりは十七歳で妊娠しました。十七歳での妊娠は、被差別部落ではそう珍しい事ではありませんでした。また高校生の父親もよくある事でした。あかりの相手は、被差別部落民ではありませんでした。あかりは、自分が被差別部落民である事を隠してお付き合いをしていたらしいのです。問題は相手の両親でした。あかりもまた相手の親に交際を猛反対されました。あかりは、ずっと泣いていました。相手もまだ高校生でした。交際を認めて欲しくて、ご両親に会いに行く度に、
「厚かましい! 」
「この、身の程知らず! 」
罵られていたようです。あかりは妊娠していました。暴言を浴びせられてあかりは心身ともに疲れていたと思います。お腹の赤ちゃんは、どんどん大きくなっていきます。
「どうしよう、お母さん」
赤ちゃんは妊娠六か月に入っていました。
「お父さんとお母さんから、話をしようか? 」
「私、お父さんと、お母さんに頼ってもいいの? 」
「もちろんよ」
私はあかりを抱きしめました。
「あかりとお腹の赤ちゃんはお母さんが守ってあげる」
日曜日、あかりの彼、本村くんはスーツを着て同和地区にやって来ました。
「本村です。始めまして」
「本村くん、一人か? ご両親は? 」
夫は言いました。
「僕だけです。父がこれをお渡しするようにと」
未成年なのに、親が来ないなんて、最初から舐められている、そう思いました。本村くんは厚い封筒を、夫に渡しました。
「これは、なんや? 」
主人が言いました。
「お金です。百万入っています」
「金の額やない、一体、なんの為の金や」
「あかりさんの出産費用です。百万では足りませんか? 」
「聞いている意味が分からんか? 」
「だから、あかりさんのお産費用と、プラス手切金です」
「手切金やと? 」
「子どもはもうおろせない時期に入っています。なので、あかりさんに、産んでもらって、どこか遠い施設に預けるのが一番いいと思うのです。これが、うちの両親と、僕の考えた結論です」
夫はなにも言いませんでした。
「百万円で足りるはずです、それで、僕はあかりさんと縁を切りたい」
縁を? どうして?  妊娠した女は縁を切られるの? 
「どうして? 」
「親が、そうしろといいます。僕もあかりさんと縁を切りたい。理由は、はっきり言って、あかりさんが被差別部落の娘さんだからです」
父は言いました。
「この百万は、あかりと縁を切って、何もかもなかった事にする為の、百万か? 」
「そう思ってくれて結構です。人生において、僕は、被差別部落の人とは、関わり合いになりたくないんです」
父は冷静に言いました。
「君の誠意はいったいどこにあるんや」
「この封筒の中にあります」
本村くんは同じような封筒をもう一つだして夫に渡しました。その様子を私もあかりも見ていました。
「後、もう百万、これで全て納めてもらえませんか? 」
「金の話がしたいんと違う。例えば、将来、あかりと結婚する気はないんか? 子どもの為にも」
「結婚? 」
本村くんは笑っていいました。
「だって、あかりさんは被差別部落民なんでしょう? 」
完全に被差別部落を見下げた言い方でした。
「それだけの理由で結婚できないのか? あかりに何か問題があるならともかく。それが、あかりをどれだけ傷つけるか、本村くんには分からんのか? 」
「お言葉ですが、被差別部落の問題は大きいですよ」
「それは、分かっている、でも、少しでもあかりの気持ちを考えてやってもらえないのか? 」
「うちの一族は皆、教育関係の職に就いている家系なんです。失礼ですが、おたくとうちでは、家柄が違いすぎる。そう思いませんか? うちの一族は皆、良家から妻をもらうのが当たり前なんです。被差別部落の女の子を嫁さんにもらったりしたら、僕は笑いものになる。恥をかくだけです」
「なんだと? 」
夫が怒っているのが分かりました。これが現実。
「それに、僕はあかりさんに騙されたんですよ」
「お父さん、子どもが出来たらどうしよう? って、私が聞いたら、そしたら、結婚しよう。って、本村くんは言ったの」
本村くんを見て、あかりは言いました。
「嘘つき! 」
あかりは本村くんに無視されました。
「僕には、子どもの頃からの婚約者がいます。親の都合のいい相手の娘ですが、僕も気にいってます。それに、うちの父は有名私立高校の理事長をしています。次の参院選に出馬する予定なんです。当然、長男の僕も、付き合う人間を選ばないといけません。そんな僕が被差別部落の女の子なんかと、結婚できると思いますか? 」
「無理なのか? この子を産んで、うちで子どもを育てるのも、ダメなのか? 」
「もう、二百万で許してもらえませんか。出来るだけ離れた場所の施設に預けて下さい、人の目や噂がありますから」
本村くんは
「じゃあ、そういう事で」
封筒を置いて去って行きました。
本村くんを引き止めず、なじらず。責めず。肩を震わせて、大きなお腹を抱えて、あかりは懸命に耐えていました。私も何も言う気にはなれませんでした。
「色んな人がいるから、あんな人間が、教育者になるのも珍しくないのかも知れないな」
主人が一言、言いました。
厚い封筒が二種類、残りました。
「百万円? 」
「こっちは? 」
あかりは父親に聞きました。
「こっちも、百万円。慰謝料のつもりらしい」
「お金なんか、要らない」
あかりは言いました。
「あかり、本村くんの、本当の姿が分ってかえって良かったんじゃないか? 」
「お父さん、お母さん」
「なに? 」
「私、高校を退学して赤ちゃん産むわ。いい? 」
「産んで施設に預けるのか? 」
「自分で育てる。施設には入れないわ」
「賛成よ。あかりはまだ、十七歳なんだから、赤ちゃんを産んでも、幾らでも、やり直しが出来るわ」
私は言いました。
「あかり、お母さんね。小学校の時に読んだ本があるの。
「卑しいものとは結婚してはならない。血は、一度汚れるときれいにはならない。えたの子はいつまでもえたである。「『えたの子はいつまでもえた』って書いてた。この言葉、心が折れない? 」
「折れるね。本当にそうやね。お母さん。私たち、夢を持つ事さえ許されないんやね」
「悲しい言葉から先に覚えていくね」
「そうね。今から思うと、同和地区にお嫁に来てくれた、死んだお婆ちゃんって、凄い人だったんやね」
「本当ね」
「お母さん、被差別部落ってなんなの? 」
 あかりは言いました。
「色んな説があって分からないわ」
「普通の人との戸籍とは別に特別に被差別部落の戸籍があるって本当の話なの? その戸籍を元に色んな優遇措置が受けられるんじゃないの? 」
「特別な戸籍があるかどうかは、知らないけれど。江戸時代に、被差別身分の人たちが存在したことがあったみたい。それが、明治時代以降、その身分制度そのものがなくなってしまって。でも、今もその人たちの子孫を差別している人、差別されている人たちがいるということを習ったわ。その、差別される側の子孫が、私たちなのよ」
「分かった」
「お母さん。人を差別するのって、そんなに楽しいのかしら」
「お母さんには分からないけど」
「私にも分からない」
「でも、差別は世界中にあるよね? 」
「日本はとても調和的な社会っていう評判があるくらいね。見た目、階級の区別もほとんど見られないものね。でも、見えないだけで、現実、差別があるから」
「うん」
「日本にも、差別がある。それが被差別部落」
「お母さん、これって、いつからなの? 」
「昔、江戸時代には既に被差別部落の人たちが存在していたらしいわ。あかりたちはその子孫になるのよ」
「江戸時代」
明治時代以降、身分制度はなくなった筈なんだけど。それは、表向きだった。そのことで今も差別している人たちがいる。大勢の人は大昔のことは関係ないと言いながら、いざ、自分の事になると、逃げるの」
「お母さん、私、どうしたらいいの? 
「難しいよね。もっと、人権や部落問題に対するきちんとした教育を受けた人たちが増えれば、部落差別問題はなくせると思う? 」
あかりは、
「分からない」
正直に言った。
「お母さんはなくせると、信じている。あかり、お母さんは、小さい頃からの人権に関する教育が重要だと思う。お母さんは色んな被差別部落問題に協力できるように、まずは自分が勉強していこうと思う」
「そう信じないと生きていけないよね」
私は言いました。
「被差別部落出身だということは、今後、敢えて自分から人に言う必要はない、それは分かるでしょう? でも、あかりが下を向いて歩く必要もないのよ。あかりは堂々と胸を張って生きればいいんだから」
あかりは十八歳の誕生日に女の子を産みました。
「美歩って名前にするわ。どんな時も希望を持って歩めるように」
あかりは未来の昔の言葉を、思い出しました。
「差別はなくならないかも知れない。でも、諦めないこと、負けない事を、大人たちが次世代の子どもたちに伝えていく事が、大切だと思う」
あかりが三十歳のときに、
「結婚したい」
恋人を連れて来ました。望歩は十二歳になっていました。被差別部落民である事や娘のことを、今度も、打ち明けたと言いました。
「お父さん、お母さん、私、結婚して、いいかな? 」
「あかりがいいなら、お父さんもお母さんも反対はしないわ」
「子どものことと、被差別部落の事、色々話す前は勇気がいったわ。彼との仲が壊れるかも知れないと思うと、怖かった」
「僕は気にしなくていい、と言ったんです。勇気が要ったね。話してくれてありがとう。って。でも、関係ないんだよ。僕は十八歳で一人で子どもを産んで頑張って育てて来た、あかりの事が好きなんだから」
「進次さん。ありがとう」
「でも本当は知っていたんだよ」
進次郎さんは言いました。
「娘がいることも、被差別部落の事も。いつ話してくれるのかなって、待ってたんだ」
「そうなの? 」
進次さんの両親が住所から、もしかしたら、と思い調べたのだそうです。あかりはつきあい始めて数週間後に進次さんに話したのだそうです。
「多少のショックは受けたよ」
進次郎さんは言いました。進次郎さんの両親は、進次郎さんがあかりと付き合っていく途中で、あかりが被差別部落民だということを知って、それが原因であかりを捨てたりするような人間にだけはなって欲しくないと思って調べた事を話したのだそうです。
「そんな事があったの? 」
涙が溢れました。嬉し涙でした。
「ありがとう。何も知らなくてごめんなさい」
あかりは泣いていました。
「素晴らしいご両親」
美歩は進次郎さんの手をとって、
「お兄ちゃん、遊んで! 」
と甘えていました。私は、被差別部落について理解のある彼のご両親に本当に感謝しました。
「お母さん、私、この街を出ようと思うの」
あかりが言いました。
「進次郎さんの実家の近くにマンションを借りるわ」
「やっていけるの? 」
「毎週来るし、車で一五分だもの」
「距離の問題じゃないのよ」
私は言いました。
「なんとか、やっていくしかないし。美歩の学校のことも心配だけど」
「そうねえ」
「お母さん、私、差別の連鎖を断ちたいの。それにはここから出るのが第一歩なの」
「ダメだったら、無理しないで帰ってきなさい。それが親心よ」
「頑張るわ」
進次郎さんは言いました。
「僕があかりと美歩ちゃんを守っていきます」
「ありがとう」
私は泣きました。差別の連鎖を断ちたい。その娘の言葉が嬉しかったのです。あかりが、やっと幸せになれる。
「あかり、おめでとう。何もかも、これからよ」
あかりの差別との本当の戦いはこれからです。これから親子三人で、差別に立ち向かっていくのです。
「何とかして、ここ以外の土地でやっていくわ。美歩の為にも私、強くなる。強くなりたいの」
「あかり、美歩には被差別部落の事を徹底的に学ばせなさい。それが、美歩を守る事になるんだから」
 
さあ、船出です。あかりは今、船を漕ぎ始めたばかりです。あかり、今こそ漕ぎ出しなさい。私はあかりにいいました。
「あかり、幸せになりなさい」
私は差別と闘うあかりをずっと見守って生きて行きます。人権教育が必要だと思います。全ては教育なのです。私もこれから、あかりが直面する全ての問題に、私なりに協力やアドバイスができるように、まずは私が今まで以上にしっかりと、勉強していこうと思っています。差別の連鎖を断ちたい。そう言った娘の事を私は誇りに思います。

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