やる 〜 嫌なことを減らすフラットの先へ 〜

幸せですか?
不幸せですか?
どっちでもいいですが。
現状に満足ですか?
不満ですか?
それはどこまで本当ですか?
そう思い込んでるだけじゃありゃしませんか。
退屈な日常、なんて、馬鹿の一つ覚えみたいに、雑魚創作者達は使うけど、それこそ望んだ状況なのではないか、などと供述してみる。
そこ、ここ、が、望んだ状況であるならば、現に今抱いてる不満はなんなのか。
たとえば働いていていやなことがあったとか。
日常生活で嫌なことが続いているとか。
そういう、嫌なことをなくせれば、じゃあいいのかと。
誰の、何にとってのいいのかと。
満足する?
絶対しない。しても一瞬。すぐまた次へ。
嫌なことをなくすこと、それをフラットにしたところで、それには終わりがないように思う。
フラットにしたそばからまた嫌なことで陥没するよ。それをまた蓋をするなり埋め立てるなりしてもいたちごっこそうだ。
フラットの状態を保つことは難しそうで、それ自体が不協和を増やす要因にさえなるだろうな。
そういう波乱の中で、ひとときの安静があって、それを満足とか幸せとか呼ぶのなら、あんまりに見合わない費用対効果じゃあないかな。
だから嫌なことをなくすという観点とは別の切り口捉え方をしてみたらどうだろう、という提案なんだ。
いわばフラットの先へ、思考を切り替えていくってことさな。
言ってる意味わかる?私は判然としないけど。
なぁんて。

つまりさ、いやなことがあっても、したいことができたら幸せなんじゃない?

たぶん、不満がある人は、したいことができていないんだ。ままなっていないんだ。
その上嫌なことがあってパンクしそう!そんなこともある。
ついついそっちに目が向きがちだけど、本質的に肝要なのはしたいことの方だと思う。
で、したいのにやってないってことは、何かしらのコンフリクトがあって身動きが取れていないのだと考えられるけれど、それを「それだから仕方ない」「今は動けない」などと言ってたら、一生したいことはできなさそうだなって。
そういう面があるから、よく「言い訳するな」みたいな言葉がお説教と提携文として今も生き残っているんじゃあないかな。まあその使われ方は間違ってる気がするけど。
閑話休題。
つまり、要はさ、幸せになりたいなら、満足したいなら、楽しくなりたいなら、ウダウダ言ってねーでしたいことやれよってことなんじゃあないかな。
そこにでもとかだってとかやらない理由できない理由並べ立てても、それがどれだけ真っ当だろうが説得力を持とうが論理的に正しかろうが人生に益しない気がする。
結局やったことしか残らないし、やってないことは残らないのは変わらない。やって残ったことを自分がどう解釈できるか、するかは時期やら状況やら時勢によっても変わり続けるだろうけれど、やってないことはもうただただそれだけでリスクで負債だからね。
何もしないのは楽で気持ちがいい面もあるけれど、焦りは延々燻り続け、爆発直前の風船みたいに張り詰めた緊張状態が続く感じになっちゃうとこもあるよねって、思うんよ。
仕方ないとかそんなこといぅたってって理由があるのはわかる、うんわかるよぉ。それはそれのままでいいんだ。別にそれをしまったり隠したり取り消したり覆したりする必要はないんだ多分な。それはそのままに、ただ、やればいいだけ。
そこには無理が伴うだろう。とても困難だから今の今までできてないのだろう。
そう、困難。
困難だから多くの人は成功とか成就とは程遠い場所にいるわけで。
誰にでもできるのであればそんなんは評価もされないしね。
難しくとも、自分がやりたいからやる、ただそれだけのことなんじゃあないか。
結局はやはり、やるかやらないか。その二元論に落ちつんだと思うよ、やっぱりね。
やったことが結果に繋がったり、評価されるとは限らない。むしろそれが原因で生活や人間関係は悪化するかもしれない。
その観点については、個々の人間がじゃあ何を一番大切にするのかって質問によって、切り崩していくかな。
願望成就が一位なのであれば、容赦も躊躇も情けもいらないんだろうさ。
やればいいだけ、簡単。
と言ってしまうのは簡単だが、それはとても困難で、苦しみを伴う茨の道であろう。
だからこそそれを選べるものは限られ、続けられる人は更に篩にかけられたひとにぎり。そのうち選ばれるのは、残るのはたったのひとつまみ。
とうぜんやってないものはなんの権利もない。やってないんだから。さっきの例でいえばそもそも篩にかけるもののなかにいないということだ。はじまっていない。
続けられるかの篩に耐え、選ばれるための存在感を示せたものだけが、成功する。
だからまずは、ウダウダ言ってないでやらないと。エントリーすらしていないのに、受かるわけないよね。宝くじ買ってないのに宝くじ当たんないかな、みたいな。(まあ宝くじは買っても絶対当たらないが)
今括弧書きで書いた宝くじ、その抽選の公平さなんて小市民にはわからないよね。公平に行われていると伝え効いたり、第三者機関の監査があると聞くことはできても、それが本当に公正てまある保証はなく、根拠も弱い。
ように、古いの中から選ばれる時にもさまざまな意志が入り乱れているだろう。
だから無名が成功することは殆ど無理ゲーなんだな。
それでもやってみなくちゃわからないってのは真で、同時に多分やってもダメだと思うよっていうのも大方は正しい。
あとはただ、それでもやるかどうかという選択だけ。
やってみてだめならだめでそれでいいじゃないか。
一つ答えを知れる分、世の中や自分への理解も深まろうよ。
よしんばうまくいけばそれでよし。
やる前からあれこれ考えてやらんでいたら、成功するものもしないよね。
だから、「やる」ということは何にも増して価値があり、可能性を秘めていると、言えそうだ。
芽吹くかどうかは本当に、誰もわからないけれど。

そんなこと言われたってやる気なんて起きねーけどね。
やる気に左右されてやったりやらなかったりでいいのかって話もあったりね。
そこで習慣の力やらウィルパワーやら。七年前くらいによく調べてたなそこらへんのこと。
人が変わるのは容易ではないし、目の前にある楽なことや娯楽を避けて苦痛に塗れたやりたいことをやるのは相当な自分との戦いとなるよね。
それを乗り越えんとならんのさ。たぶん。しらんけど。

それでもしたくないなら、それもまた、それだってしたいことなんじゃないか。
しないことをしたい。それならそれでいいじゃないか。それにさえ不満を抱くから、ずっとぐるぐるループする。
じゃあその不満を鞘に収めたら解決するか?そう簡単にできたら苦労しないし、現にその不満はあるわけだしな。
やっぱり解決策は「やる」以外ないんだよな。

失敗していいから、嫌われていいから、奪われていいから、盗まれていいから、操られていいから、不当に評価されていいから、やってみたら?
結果も成果も出なくてもいい。
人気も徳も積まなくていい。
ただ「やる」


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