ゴケゴーちゃん@台本

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埼玉県の歴史を紹介していきます/YouTube用脚本/暮らしに関係のある歴史/YouTube:ゴケゴーちゃんねる

最近の記事

熊谷県の始まりと終わり•後編【県庁所在地争奪戦④】

おう! みんな張り切ってやってんなっ ああ、そのままそのまま、仕事を続けてくれい 建白書を見せてもらった いやあ、まっこと見事な建白書だった 特に小泉くん、あれ君の字だろ? 素晴らしい清書だった。字が綺麗だとそれだけで印象がグッと良くなるんだ、ありがとうな(後に埼玉県のたぶん初めての公式の教科書の書き方手本を書く先生です、書道の先生です) というわけで今日は、熊谷県の実現に向け邁進する君たちに、良いニュースとちょーっとだけ悪いニュースを持ってきた。あー、大丈夫だ、悪

    • 熊谷県の始まりと終わり•前編【県庁所在地争奪戦③】

      ちょ、ちょっと待ってくれ渋沢。おめえ本当に良くしゃべんな まあそう言うな、これは熊谷の将来、いや、この国の根幹に関わる話になるかもしれねえ。そのためには竹井、お前のチカラが必要なんだ。しっかり聞いてくれ 新橋と横浜の間に鉄道が開通したのはおまえも知っているだろう。新政府、と言ってもまだまだ反対意見は多いのだが、伊藤と大隈はこの鉄道を京都まで延伸しようと考えている 横浜からということは東海道か ああそうだ。だがこのあいだボイルというエゲレス人に話を聞いたんだ ボイルは

      • 岩槻、運命の二週間【県庁所在地争奪戦②】

        明治4年、廃藩置県が実施され埼玉県が成立。県庁は岩槻に置かれることになりましたが、岩槻には 適当な建物がなかったため 仮ということで浦和に県庁を移し、そのまま浦和が県庁所在地となりました というようなことがどの資料にも書いてあるので 岩槻には建物がなかった説 をみなさん信じていると思うのですが、岩槻にはなんなら岩槻城もありましたからね、建物がないというのはちょっとおかしな話ですよね? ええ、真相は別のところにありました しかしこれについては逡巡しました どうも

        • 浦和県と大宮県【県庁所在地争奪戦①】

          どもこんにちは! ゴケゴーちゃんですっ 早速ですが今回は、埼玉県民の共通認識でありながら、いまいちその理由が分からない 浦和と大宮はなぜ仲が悪いのか 大きなテーマです、数回に分け掘り下げていく、その第一回目とさせていただきます! 県庁所在地を取り合ったんだろ? はい。浦和と大宮の因縁は県庁所在地を奪い合った、その経緯に端を発しています。ただ歴史は勝った側が作ると言いますが、この戦いに勝利した浦和に 多くを語りたがらない 雰囲気があり、実際どのような出来事があった

        熊谷県の始まりと終わり•後編【県庁所在地争奪戦④】

          もしかしてあの水子【富士見市】

          平凡社、角川、主な地名辞典にも、いわゆる「水子」に寄せる説というのは記載がないのですが、昭和30年発行、埼玉の伝説(日高市女影の回でも開きましたね)の中にいわゆる水子が由来であるという説を発見してしまいました、なので今回は もしかしてあの水子? 富士見市水子に接したほぼ全ての方の脳裏に横切ったであろうこのハテナについて見ていきます 大正時代に書かれたものです 伝説は郷土所産の詩 伝説は其国文学の母 伝説は懐かしい郷土の産んでくれた愛すべき美しい詩であります 先に

          もしかしてあの水子【富士見市】

          古のスーパー直線道路【東山道武蔵道】

          The long and winding road that leads to your door〜 今さら説明の必要もないビートルズの代表曲ですが、他にも 知らず知らず 歩いてきた 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道〜 美空ひばりさんや 曲がりくねり はしゃいだ道〜 米津玄師さんなど どうも道というのは、細く長く曲がりくねっていたほうが洋の東西を問わず情緒を感じやすいのか、歌や詩になりやすいのかもしれません しか

          古のスーパー直線道路【東山道武蔵道】

          地名の由来、所沢市

          久米生まれ、北秋津育ち、ライオンズを観るためだけに山口に越してまいりましたゴケゴーちゃんでっす、いってみましょう! 狭山ヶ丘 何もないところに駅が開業し、人が住み始め、町になり、町名が必要になり、駅名をとり狭山ヶ丘と命名されました。狭山ヶ丘駅は元は三ヶ島駅でした。常磐線の三河島駅との混同を避け狭山ヶ丘に変更されたそうです 若狭 若狭小学校の校名をとり昭和52年に成立しました。ヤングな狭山ヶ丘、若い街という意味ですね 和ヶ原 見ず知らずの人も仲良くの和、三ヶ島のヶ、

          地名の由来、所沢市

          小代氏の手紙【東松山市正代】

          どもこんにちは、ゴケゴーちゃんです! 早速ですが今回は、東松山市正代、ピオニーウォークの辺りに住まわれていた鎌倉幕府の御家人 小代伊重 という方の書き残した置文、子どもたち、そして子孫に宛てて書いたお手紙ですね、そちらを見ていきたいなと思います 鎌倉時代の武士が、何を大事にし、何を求めていたのか、その点が現代の私たちにもよく分かる、実に興味深い、そしてめっちゃ切ない 全東松山が泣いた! 的なお手紙ですので、どうぞ最後までお付き合いくださいませっ 実際の置文はもっ

          小代氏の手紙【東松山市正代】

          血洗島と手計村【深谷市】

          恐ろしげなるこの村名の影には幾多の伝説と口碑が伝わっている by 渋沢栄一 渋沢栄一も認める、恐ろしげなる地名 深谷市血洗島 今回はこのおどろおどろしい地名の由来について考えてみます 腕を切り落とすなど、少々痛々しい話になりますので、青天を衝けのあの美しい風景を思い出しながらご覧いただければなと思いますぞ。まああのセットは安中だったらしいですけどね 幾多の伝説がある そう渋沢栄一も言うように、血洗島の由来にはいくつかの説があります。主だったものは 1・赤城山の

          血洗島と手計村【深谷市】

          悲劇の花婿、入間川に散る【狭山市広瀬】

          狭山市、国道16号の、かつてアルペンのあったところと言ったほうが伝わるでしょうか、気にしていても見落としてしまうくらいの小さな小さな神社があります 清水冠者源義高終焉の地 1184年の春、源義高という青年と呼ぶにはまだ早い、一人の少年がこの地で命を落としました 今回はその顛末を見ていきます。年端もいかない少年が殺害される、ひどい話ですが、これも鎌倉と密接な関係にあった埼玉県の歴史。感傷的になりすぎないよう進めていきますので、どうぞ最後までお付き合いくださいませ 源義高

          悲劇の花婿、入間川に散る【狭山市広瀬】