岩槻、運命の二週間【県庁所在地争奪戦②】
明治4年、廃藩置県が実施され埼玉県が成立。県庁は岩槻に置かれることになりましたが、岩槻には
適当な建物がなかったため
仮ということで浦和に県庁を移し、そのまま浦和が県庁所在地となりました
というようなことがどの資料にも書いてあるので
岩槻には建物がなかった説
をみなさん信じていると思うのですが、岩槻にはなんなら岩槻城もありましたからね、建物がないというのはちょっとおかしな話ですよね?
ええ、真相は別のところにありました
しかしこれについては逡巡しました
どうも埼玉県にはこの真相を知られたくない何か事情があるようです
興味本位でYouTubeにしてしまって良いものなのか、動画にすることで傷つく誰かがいるのではないか、素直に建物が無かった説を採用し紹介すればいい、そんな想いも私の中にはありました
が、ある日、岩槻の街を散策していた時のことです
頭が出来ない(バカ)って書いてあるやないかい!!
というわけで! 岩槻はなぜ県庁所在地の座を浦和に譲ることになったのか、埼玉県の初代県庁舎、岩槻の芳林寺にあるこの碑をもとに辿っていきたいと思いますっ
今となっては隠すようなことでもないと思うので、私がぜーーーんぶぶっちゃけちゃいますねwww
それでは、明治政府第二のクーデター、廃藩置県に埼玉県はどう巻き込まれたのかを見ていきます
廃藩置県は明治4年ですが、せっかくですので廃藩置県は明治4年の7月からと覚えてしまいましょう(二段階なんですね)
先ずは明治4年の7月、藩であった岩槻・忍・川越の三藩が県になります
しかしこれは藩の名称が県に置き換わっただけ、藩主はそのまま県知事的なものに、藩士は職員的なものになったのみで、県域もそのまま、実態は何も変わりませんでした
そして11月14日
埼玉県民の日ですね
忍県と岩槻県が廃止され埼玉県が成立
今回は触れませんが川越県が廃止され入間県が成立しました
幕府領、旗本領、藩領、寺社領、本拠が他県にある藩の藩領(秩父に鳥取県があったりしました)1000以上の細切れ状態であった県域が、埼玉県と入間県、まだ2つに分かれてはいますが、ここで初めて今は当たり前の地続きの県域になります
明治初期はとにかく複雑なので皆さん好きでないと思うのですが、現代の私達の暮しの仕組みが時には恐る恐る、時にはえいやっと脈絡もなく飛び出してくる、面白さがあるのかなと思います
日本中の藩が潰される、すべての藩のお殿様がそのポジションを剥奪される、このような乱暴な改革がなぜ大きな抵抗もなく成し遂げられたのか
ひとつは西郷隆盛が
不満があるなら兵を差し向けられるがよい、お相手いたそう
殺る気まんまんであったこと
もうひとつは藩はどこも借金まみれだったのですが、その借金が戊辰戦争でさらにかさみ広島藩や古河藩などは藩士の禄、つまりお給料も払えない状況にまで追い詰められていました
明治政府はその借金は廃藩置県後は政府が肩代わりする、言ったんですね
お?って感じですよね、まあ払わないんですけどね
そしてお殿様ですが、はいからさんが通るで説明しますね
伊集院家のおじいちゃんは島津侯に下賜されたお皿を大事にしていたことからも分かるように薩摩藩と親密な関係にあった藩のお殿様でした。けれど伊集院家のお屋敷は東京にありました
明治政府は、お殿様というポジションは消滅するけれど皆様は華族、不自由のない暮らしを約束します、またお殿様を家臣や領民と切り離し東京に住まわせる、体よく地元を追い出すことで完全なる藩の解体、中央集権国家の実現を目指しました
お殿様の多くは維新前よりも収入がアップしたそうです。心配事の多くは新政府に転嫁されましたので、西郷とやり合うなんてとんでもない、むしろ皆、内心ほっとしていたかもしれませんね
そして長年藩を支えてきた藩士たちですが、こちらは雀の涙ほどのお手当は出たものの基本クビ
それでもなお地元に留まり新たな時代の行政の担い手として活躍する人もありましたが、多くの者が「武士」というポジションを奪われ、農業に転じる、あるいは新たな商売を始めるなどの道を選び、ことごとく失敗し、しだいに困窮していくことになりました
もし自分が藩士の立場だったらどうでしょうかというお話です
260年続いた江戸幕府が暴力により滅ぼされ、勤め先である藩が潰され、長年仕えていたお殿様が追い出され、先祖代々の武士という身分までもが消滅させられ放っぽり出される
率直にムカつきますよね?
埼玉県は岩槻県・忍県、そして幕府の直轄地であった浦和県が一つになり成立しました
県庁が岩槻に置かれた理由は、県域において一番大きな街が岩槻であったからでした
現在の岩槻から想像するといまいちピンときませんが、岩槻は二万三千石の城下町でしたので、これは妥当だろうなと思います
そして名称ですが、これは岩槻が「埼玉郡」に属していたため郡の名を取り「埼玉県」と命名されました
埼玉は懲罰的に付けられた名称だった、という説もあるのですが、こちらは補足の回で触れたいと思っています
この埼玉県に初代県知事として赴任されてきたお方が薩摩男児、野村盛秀さんでした
今回は特別に野村さんともうおひと方、冒頭で紹介した碑の文章を書かれた方ですね。岩槻町の初代町長、秋葉保雄さんをお招きしておりますので、秋葉さんのご自宅の一室をお借りして当時のことを詳しく聞いてみたいと思います。それでは本日はよろしくお願いします
こちらこそよろしくお頼み申す
よろしく
先ずは野村さんにお伺いします。岩槻をわずか二週間で諦めたと伺いましたが、どのような経緯があったのでしょうか
県知事に任命されたとき、わしは常盤橋の越前候の屋敷にいたのだが、埼玉はいろいろ大変だぞと聞かされていてな、それで部下に命じて岩槻を視察させたのだ。すると岩槻ではすでに県庁設置の反対運動が盛り上がっているというではないか。この点については秋葉さんの方が詳しく知っているであろうな、当事者だしな
言い方…まあ我々にしてみれば、藩を無くされた上、新政府の役人に押しかけられ、野村さんご本人の前で言うのもなんなのですが威張り散らされる訳ですから面白くはないんですな。ただ県庁が来るのを反対していたかというとそれは少し違うんですね
ほう、部下からは県知事暗殺も辞さない状況だと聞かされたがな
岩槻藩士で家老格の家柄… 名前は伏せますが剣術の達者な男がおりましてな。御一新の前であれば剣術だけで立派に家門が立ったのですが、廃藩置県の後はそれではもう飯が食えない。そんなわけで、県庁へ仕官したいと希望を抱いたんですな
威張り散らす薩長の役人と県庁が来ることを拒否したのではなく、逆に県庁に就職したかったということですか?
その通りですね。ところがこの男、頭が出来ないので採用されない
それを遺恨に思って、長刀を振り回すだの、県庁舎として指定された芳林寺に寺を貸すなと脅しをかけるだの、散々嫌味を並べて毎日のように暴れたのですな
ちょ、ちょっとすいません、今の「寺を貸すな」がとても気になったのですが、150年後の埼玉県では「岩槻には適当な建物がなかったため県庁を浦和に譲った」というのが常識になっています。もしかして建物が無かったというのは物理的に存在しなかったのではなく
新政府に貸す建物なんてねえ!だったということですか!?
岩槻は大きな町であったから、建物が無かったということはないな。だからこそこの男が暴れさえしなければ岩槻は県庁所在地として、今頃は県の首都として、大いに発展していただろうなと思うのです。重ね重ねこの男の仕打ちが恨めしく思われますよ
この方がもう少しお勉強の出来るタイプであれば、岩槻にはまるで違う未来があったかもしれない、ということですね…
はい、私はそう感じておりますよ
野村さんはこの話ご存知でしたか?
頭の出来の悪い藩士が、というのは覚えがないが、岩槻には不平分子が多くあるので県庁を設置するのは困難であるという報告は受けていた。しかしかといって「岩槻には怖いから行けません」と太政大臣様に言うわけにもいかないしな、ほとほと困り果てたのは覚えているよ
ここで浦和案が浮上してきた訳ですね
部下からの進言があったのだ。幸い浦和県の県庁舎がそのままになっている。浦和は幕府直轄領などの多かったところ、因果関係のない他人支配には慣れておるとな。浦和からのアピールもあったようじゃ
県庁所在地が浦和になった本当の理由、よく分かりました、ありがとうございました。ただ一つ疑問なのですが、浦和を「仮」の県庁所在地としましたよね? これは何か理由があったのでしょうか
あー、それなwww それについてはずいぶん揉めたのだwww
埼玉県は県庁が「埼玉郡岩槻町」であったから埼玉県と命名されたのだ。しかし県庁を浦和に移すとなれば浦和は足立郡
足立県とするのが筋ではないか?
足立県… 埼玉という名称に慣れ親しんだ現代からすると賛同しかねるネーミングですが、埼玉県が発足してまだわずか二週間ですからね。変更の余地はあったということですね
そうだ。ただ勝手自由に変更出来るものでもない。変更をするなら太政官にお伺いを立てなければならないだろうし予算も伴う
で、仮ということに?
仮なら仮だから万事問題なかろうwww ゴム印なんかも発注しちゃったしなwww
あのーすいません。浦和が県庁である何か合理的な理由というのはあるのでしょうか
合理的な理由、ないな、歴史的惰性じゃな
それでは最後に。本日お話いただいた経緯について、新編埼玉県史通史編はまたしても何ひとつ触れておりません。これはなぜだと思いますか。秋葉さんからお願いします
頭の出来ないのがいたから浦和になったなどと書けるわけがないであろう。岩槻だけでなく埼玉県の恥にもなる
しかし秋葉さんは書き残してくれました、秋葉さんが書いてくれなかったら真実は永遠に闇の中だったかもしれません。本当にありがとうございました。野村さんはどう思われますか?
おねえちゃんよ、こう見えてわしは戊辰の戰を戦い抜いた薩摩の男なんだぜ? そのわしが
不平分子が怖くて岩槻には赴任出来ませんでしたなどと県史に書かせる訳がないであろう
だから岩槻は利不便、浦和は中山道沿いで東京からのアクセスが良いなどの理由を後付けしたのだ、察してくれ
ですよねwww 建物がないとかアクセスが悪いとか、県庁所在地にする前に調べとけって話ですものね。うん、そんなこったろうと思ってましたwww 本日はありがとうございました!
おねえちゃんの時代、岩槻には何か明るいニュースはあったかの
ユーアンド愛のアイが伊奈から岩槻になりました
ちょっと何を言っているのかわからんのお
そのすぐ直後の明治5年、熊谷が入間県の県庁を川越より奪い取るべく活動を活発化させます
これはいい案だ栄一、ただ話が大きいな、出来るのか
渋沢栄一、登場
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