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悲劇の花婿、入間川に散る【狭山市広瀬】

狭山市、国道16号の、かつてアルペンのあったところと言ったほうが伝わるでしょうか、気にしていても見落としてしまうくらいの小さな小さな神社があります

清水冠者源義高終焉の地

1184年の春、源義高という青年と呼ぶにはまだ早い、一人の少年がこの地で命を落としました

今回はその顛末を見ていきます。年端もいかない少年が殺害される、ひどい話ですが、これも鎌倉と密接な関係にあった埼玉県の歴史。感傷的になりすぎないよう進めていきますので、どうぞ最後までお付き合いくださいませ

源義高とは、日本史のビッグスター、木曽義仲のご子息です

ちなみに義仲のパパは義賢

パパがよしかたで息子がよしたかw

ややこしいかと思いきや、義仲は仲なので中、その前後にカタとタカ、逆に覚えやすかったりしますので、義仲ファミリーはセットで頭に入れてしまうとハッピーセットでしょうwww

それはさておき激動の治承4年。頼朝に少し遅れて義仲も信濃で兵を挙げます。その義仲が群馬県に進行するあたりからお話させていただきますね

1180年10月、義仲、パパ義賢の旧領である上野(こうずけ)の多胡(たこ)に入る

12月、源頼朝の勢力が及んできたため信濃に退却する

1181年、関西を中心に大規模な飢饉が起き平家も源氏も義仲も争いどころじゃなくなる

少し空いて1183年、頼朝と敵対した志田義広が義仲を頼り信濃に入る。義仲と頼朝との関係が悪化する

ところで義仲のパパが義賢、義賢のお兄さんが義朝、義朝の三男が頼朝、頼朝のお兄ちゃんが義平。で、この義平が埼玉県嵐山町大蔵で義賢を殺害しています(なので結果論になっちゃうんですけど頼朝と義仲が和睦するというのはそもそもちょっと無理なんですよね)

源平合戦、はじまる、と帯の入った書籍があります。その第一章の2、12ページより

大蔵合戦

源平合戦は埼玉県嵐山町より始まり、壇ノ浦で終結します。源平合戦は、誇張ではなく嵐山から見ていかないと分からないし楽しめないと思います(きっぱり)

頼朝は義仲を討つため10万の兵を信濃に差し向ける

義仲、息子 義高を鎌倉に送り頼朝と和睦する

義仲の子義高は「人質」という厳しい立場で鎌倉へ赴くことになりました

しかし運命とは分からないもの

義高は頼朝と北条政子の初めての子、大姫と恋仲になってしまいます

大きくなったらわたしたちケッコンするんだもんねー

そんな「おままごと」的な恋だったのかもしれません。なにせこの時の二人の年齢は

義高11歳、大姫6歳

今の小学6年生と2年生ですよ

義高に大姫に対する恋心があったかというとそれはぜんぜん違うのかなと思いますが、自分ら二人が結婚をすれば、源氏再興の悲願は一歩も二歩も前進します

自分の役割は鎌倉にある

義高は確かな自覚をもって、大姫との時間を大切に、そして慎重に過ごしていたのかもしれません

1184年正月、義仲 死す

このペースだと終わらないので一気に巻きました

京都に入った義仲は、範頼・義経率いる鎌倉軍に敗れ、近江国 粟津(あわづ)で討ち取られました

さあ、義高です

義仲亡き今、彼に何の価値があるでしょうか

大姫のお婿さん?

その線はまったくないですね

大姫は頼朝の長女ですので、例えば京都のお偉いさんの子に嫁がせるなど、利用方法はいくらだって考えられます

今や無価値の義高

なんぞにくれてやるはずはありません

殺ってしまえ

残念ですけど控えめに言ってこの線しかないんですね

ただ大姫のことがあるので簡単なことではなかったと思うんですね。実際、義仲が死んでから義高の首がとられるまで3か月もの空白があります。それだって義高が逃げたからそうなっただけで、頼朝、特に政子には「殺る」以外の何か選択肢が検討されていたのかもしれません

義高が鎌倉を脱出するまでの経緯はそれぞれググっていただくとして、義高は入間川のほとりで追っ手に捕まり首をはねられました

そして義高を討った郎党、藤内光澄(みつずみ)という方なのですが、彼も狭山から鎌倉に戻ったところ、程なくして首をはねられました

討ってこいという命令だったかもしれないが、本当に討ってしまったら大姫を初め多くの人が悲しむのは分かっていたはず

藤内光澄、空気読めないの罪で、斬首

むちゃくちゃです、光澄は言われたとおりに仕事をしただけです。むしろ恩賞をもらってしかるべきなのに極刑ですよ

いくら鎌倉時代とはいえ、こんな理不尽がまかり通ってよいものなのかいろいろ考えました。そして妄想しました。妄想ですよ

頼朝の命令は表向き「鎌倉に連れ戻せ」だった(チラ)

手向かってきたときはいかがいたしましょう…

そのときはやむを得ん(斬れ)

政子や義高の世話をしていた女性たちの手前もあり、表向きは「連れ戻せ」という指示を出しましたが、義高も武士の子。捉えられれば向かってくるか、もしくは自刃

いずれにせよ義高が生きて鎌倉に戻ることはない

頼朝はそこまで考えて「連れ戻せ」と言いました

頼朝に義高を生かしておく線はありません

生かしておけば他ならぬ自分がそうであったように、父義仲の仇である自分の命を狙う存在になってしまう可能性があるからです

逃げてくれたことで斬る口実ができた

義仲との関係が悪化したころから始まっていた「義高をどうするか問題」はこれでひとつの決着を見ます。留飲を下げる思いも頼朝には少しはあったかもしれませんね

ところが!

うちの郎党がやりましたよwww

バカァァァァッッ!!

少し後の話になりますが、修善寺に幽閉した範頼を殺る際、頼朝は梶原景時、自分の右腕ともいえる幕府の重鎮を差し向けています

源範頼が誅されることになった理由は

富士山麓で頼朝が暗殺された、という誤報が鎌倉に飛び込んだ

頼朝の妻、政子はあわてた

近くにいた範頼が「姉さん、ボクがいるから大丈夫ですよ」声をかけた

はあ? おまえ、頼朝様が死んだら自分が将軍になるつもりなん!? そりゃ謀反だな謀反

疑いをかけられ修善寺に幽閉され、殺害

またもやむちゃくちゃですよね。この程度の罪でも何でもない言葉のあやごときで幽閉され殺られちゃうんですよ?

ただ頼朝は、表向き「範頼を殺る」ということにして、こっそり逃がすことを考えたのではないかと思うんですね。範頼のお墓は北本市にありますからね

その計画を遂行するのに必要な男が梶原景時でした

頼朝には義高を誅したときのトラウマがあります。あのバカどもがドヤ顔で帰ってきたおかげで、自分の好感度はダダ下がり、大姫は半狂乱、政子は激おこ。 鎌倉は失意のどん底に叩き落されました

こういう仕事はバカには任せられない

景時なら一から十まで説明しなくてもうまくやる

頼朝はそう考え景時を差し向けたのだと思います

実際景時はうまくやりました

後に頼家が風呂場で殺害された際、母政子は

範頼は武士らしく刀を持って死んだのに、頼家はフリチンで死んでいった

こんな言葉を残しています。もし景時が範頼を逃がしたのであれば、頼朝と景時は政子をうまくだましたということになりますよね。さすがは景時だなと感じます

義高はなぜ入間川で討たれたのか

義高は鎌倉より逃げてきました。かなりの距離を所沢中学校の前を通り、鎌倉街道は泉町のセブンイレブンで分岐します、左の道を選び、入曽車両基地のクランクしている踏み切りを渡り、ファミリーマート日本一号店跡地を右に見て、一人でということはないと思うので6人説をとります、逃げてきました

このまま進めば父義仲の生まれ故郷である嵐山町大蔵があります。さらに行けば木曽、信濃もあります。この道は鎌倉街道ですが、どこかで東北方面に分岐するのでしょう、奥州道交差点、義高は奥州藤原氏を頼ろうとしたのではないかという説もあります

ただ、先に見える希望よりも、後ろに迫る絶望が彼を圧倒していたことでしょう

鎌倉から逃げ切ることなど出来るはずがありません

大蔵が鎌倉からの逃亡者である自分を快くかくまってくれる保証だってありません

憔悴しきった身と心で、義高は様々な逡巡をしたはずです

一縷(いちる)の望みがあるとすれば、川越か

義高のおじいちゃんである義賢は、河越氏の祖となる秩父重隆のお嬢さんを奥さまにもらっています

つまり川越は義高の叔父さんに当たる河越重頼の領地

河越重頼、ご本人に会ったことのある方もいらっしゃるかもしれませんね、川越まつり、だいたい毎年、山車の上に居られますからね

あいつも苦労してんだよ

もしかしたら鎌倉で優しく声をかけてくれたこともあるかもしれません

かくまってくれるかどうかは別にして、川越であれば少しは休めるかもしれない

義高の足は

入間川の流れを超えたところで迷い

そして止まった

義高が討たれたのは八丁の渡しと呼ばれる入間川の河川敷です

一丁は訳109メートルですので、額面通り受け取るならば872メートルのだだっ広い河川敷ということになるのですが、柏原には後に武具、鎧を作る工場なども作られます。利便性の高い地域だった、人の多い賑やかな場所であったと考えられますので、一人の少年が討たれるその終始は、地元の村人や船頭、職人たちにもきっとよく見えていたと思います

狭山市駅がまだいるまがわ駅という表記なのでちょっと古い資料になりますが、鎌倉街道は昭代橋を渡ったところで左に曲がり、大きな榎の木と水天宮、残ってますね

どうもこの辺りを通っていたようです。義高の生きた時代もここが道筋だったと言い切ることはもちろん出来ないのですが(鎌倉時代の始まりは私はイイクニ推しですが最近のトレンドはイイハコ1185年なのだそうです。ということは今回の出来事は1184年ですので平安時代最後の年ということになりますね)でもまあ現場は、だいたい、この辺りでしょうねえ

嵐山までの道のりは約30キロ

それよりも目と鼻の先の河越氏の館(上戸ですからすぐそこです)を目指し、武蔵の大豪族「河越氏」の後ろ盾をとって鎌倉と交渉を

なんて考えちゃったりもするんですけど、それはちょっと甘いというものですかねえ

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