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地名の由来、所沢市

久米生まれ、北秋津育ち、ライオンズを観るためだけに山口に越してまいりましたゴケゴーちゃんでっす、いってみましょう!

狭山ヶ丘

何もないところに駅が開業し、人が住み始め、町になり、町名が必要になり、駅名をとり狭山ヶ丘と命名されました。狭山ヶ丘駅は元は三ヶ島駅でした。常磐線の三河島駅との混同を避け狭山ヶ丘に変更されたそうです

若狭

若狭小学校の校名をとり昭和52年に成立しました。ヤングな狭山ヶ丘、若い街という意味ですね

和ヶ原

見ず知らずの人も仲良くの和、三ヶ島のヶ、原は小手指ヶ原の原と言いたいところなのですが原のつく小字がいくつもあるのではっきりしません、和ヶ原と命名されました。開拓地ですね

駅ができて町、学校ができて町、原っぱを開墾して町、この辺りはある時代まで人が住んでいなかった、住みにくい場所だった、ということを読み取ることが出来ますね

三ヶ島

この地に人が住み始めた頃、三つに別れた集落があたかも島のように見えたので三ヶ島と呼ばれるようになった、と幕末の資料にはあるのですが、地形の起伏に島の字を当てたのではなく、ヤクザの言う「うちのシマでなにしてくれとんのじゃ」のシマ、三つの縄張りのようなものかもしれません

三ヶ島堀之内

堀はお城の堀、と考えてしまいがちなのですが、堀之内地名はざっと見ただけでも県内に58ある。その58にそれぞれ城があったかというと三ヶ島堀之内も含め全然そんなことはないようなので、豪農、三ヶ島村の名主支配スとあるので、三ヶ島に本家のあるちょっと立派な農家のおうちの堀的なものがあったのかもしれません。山口堀之内は山口のお城があるので、お城の堀の内ですね

糀谷

分かりません。ただこのエリアは新田義貞や足利尊氏の戦跡等が多く残っていることからも分かるように古い道、それも各方面からの道の集中する場所でした

誓詞橋、ここに集結した鎌倉幕府討幕軍が「ぜってえ勝つぞ」誓いあったそうです

小手指ヶ原、原は古戦場を意味しています、関ヶ原の原ですね。各方面からの道が集中していたためここが戦場になり、小手指ヶ原の戦いに勝利した新田義貞軍は次の久米川も勝ち、東京都府中市、分倍河原へと進軍していきました

糀谷、私は国府(府中)へ通づる道、国府路(こうじ)だと思います

澱粉橋

澱粉工場があったそうです

林や木が多くあったので林になった、もうそのまんまなんですけど、畑にも宅地にもなりにくい場所だった、逆から想像することも出来ますよね。近くには林跡という小字もあります。ポツンと立つ小さな神社、元々は鬱蒼とした林の中にあったのでしょうね

小手指

武具の籠手、焼畑のサシなどいくつか説があるのですが、小手をかざした、小手指のゆるキャラ、こてまるくんの解釈がいちばんおもしろ、正解に近いのではないかと思います。動画にしましたのでぜひご覧になってみて下さい

上新井

空海の指示通りに掘ったら水が出た、でおなじみの三つ井戸由来説と、新しく井戸を掘った(井)新しく人が住んだ(居)開墾集落説があります。空海、埼玉に来たことあるんですかねえ、最澄は来てんですけどねえ

北野

十世紀、武蔵国国司として着任した菅原さんが、先祖である菅原道真を祀る京都の北野天満宮をここに勧請、北野となりました。この場所にはもとは物部天神社・国渭地祇神社、武蔵44座ですね、式内社、古い神社がありました。言葉が適切かどうかは分かりませんが、北野天神に軒先を貸して母屋を取られる、だったのかもしれませんね

北野地区町名地番整備事業

ここ分かりやすいです。北野天神通りの東側が小手指エリア、西側が北野エリア。463バイパスと県道所沢青梅線を境界とし、小手指町、小手指元町、小手指南、北野新町、北野、北野南です。分かりやすいですけどね、まあ分かったところで役に立つことはないでしょうね

岩岡

享保の改革、8代将軍吉宗の時代に所沢市山口町谷の岩岡太郎左衛門という方が開発をしました。岩岡は人のお名前ですので町人請負新田ですね

北岩岡

岩岡の北側に位置する、だと思った? 残念、北田さんの開発した北田新田と岩岡新田の合体地名でした

北田さんというとロイヤル病院のあたりに多い印象がありますけどね、北田は富岡地区なんですね、ちょっと意外でした

北中

所沢市北野の方が開発した北野新田と中北野新田が合体し北中です。新田地名はほぼ全て享保の改革以降、開かれた土地、人の住み始めた地域、比較的歴史の浅い地域と思っていただいて良いのかもしれません

所沢新町

歴史ある所沢新田は譲れねえ、元からの住民と、新しく入植した住民との間でもめ、一文字の譲歩があったんでしょうね、所沢新町となりました

茨原

ちょっと言いにくいですよね、バラーラでだいじょぶです!

富岡

明治22年組ですね。神米金、中富、下富、北中の五村と所沢町の一部が合併、成立しました。中富下富の富と北岩岡の岡で富岡ですね

神米金

比企郡吉見町の神谷さんの開いた神谷新田と久米、狭山市堀兼に本村を置く堀兼新田の金、三村が合体し神米金となりました。成立は明治七年、米や作物で収めていた年貢が金納、現金での納付に変わる時代です、神、米、金、当時の農民の何か思いが込められているようにも感じてしまいますね

中富・下富

川越藩の開いた新田です。富は良い字、川越から見て近い方から順に上富、中富、下富と命名されました。なぜ上富だけ三芳町なのか、 慶応三年、幕府崩壊の前年ですね、川越藩が前橋に転封(領地替え)します。この川越藩を仮に9の藩とします(単位はつけません、説明が必要になってしまうので)9の川越藩が去った後に7の奥州棚倉藩が入りました。2はみ出ますね、ここに線が引かれる、この2を幕府が召し上げる、そのまま廃藩置県、郡区町村編制法、三芳と所沢に分かれてしまいました

さんとみさんとめ

川越藩と所沢市はサントミですが、埼玉県と三芳町はサントメと読みます。これは私の考えなのですが、三富の開拓は軌道に乗るのに約50年かかってるんですね。逃げ出す人も多かった、富に留まるの字が当てられた、川越藩は正式にサントミですが、厳しい経緯の中でサントメが一般化していった、こんな感じはどうでしょうか

新開

浦和はこれをシビラキと読みますが所沢はフツーにシンカイと読みます。新しく開かれた場所、新田と同じ意味ですね

柳瀬

明治22年、坂ノ下、城、日比田、亀ヶ谷、本郷、南永井が合併して成立しました。県は三芳町竹間沢も一緒にー、提案しましたがこちらは実現しませんでした。柳瀬はもちろん柳瀬川からです。ヤナセの由来ははっきりしません

滝のお城がありますね。滝のお城からの景色、ステキですよね。まあ清瀬なんですけどね

坂之下

どう見ても坂の下ですね

本郷

この辺りが安松郷の中心、本郷であったと考えられます。城本郷と言ったりもするので城とセットで考えても良いのかもしれません。本郷の次は名古屋、堀之内同様、お城に付き物の地名ですね

南永井

長い川、長い集落、いくつかの説があるのですが分かりません。南永井は所沢市、北永井は三芳町問題も、県の合併計画案ではどちらも所沢市だったのですが、竹間沢を除き南永井を加えたなど紛糾した形跡があるもののはっきりしません

亀ヶ谷

江戸時代初期開墾の地にして元は亀久保村飛地の字名なりしといふ、とあるので大井町亀久保の飛地だった、で良いと思うのですが、カメは水害の常襲地帯にありがちな地名でもあるんですね。地形的に水の集まるところですので、そちらの線も無くはないと思います

松郷

まつごー!? となりのトトロに登場、全国的にもメジャーな地名となった松郷。古い地名かと思いきや、昭和20年代に成立した、安松と本郷の合体地名です

新郷

松郷と同時期の成立。新しい本郷という解説を見ましたが、新井と本郷で新郷ではありませぬか、と根拠はないのですが個人的な感想を述べたい気分になりました

東所沢

駅の名称がそのまま地名になりました

和田

川の湾曲部にワダの名が付くことがあるようです。湾曲してますね思いっきり。海のことをワダツミと言いますよね、やはりワダは水関連の地名だと思います

日比田

新たに開いた田を意味する墾田を昆田と書いたのですが、字が汚すぎて日比田と読まれてしまった説を私は推したいです

牛沼

牛の形をした沼があったという説もあるのですが、カメ同様、ウシも水害の多い地域に付く地名。30年くらい前は、東川、しょっちゅう溢れてましたよね。水が押し寄せるのオシがウシになった、とクボの付く小字がいくつもあるので窪地に出来た沼でウシヌマではないかと考えましたがいかがでしょうか

松井

安松と下新井で松井ですね

安松

扇谷上杉氏家臣、関某は入東郡安松の住人、という記録があるので所沢市では貴重な中世にまで遡る地名なのですが由来は分かっておりません。新座の平林寺にお墓のある、玉川上水を手がけた、狭山市水野の名付け親、安松金右衛門は所沢市安松の人、と小説の中の設定にはあるのですが、実はこっちもはっきりしておりません

牛沼開発

牛沼かい、ほつと読みます。少し難解な歴史書などを読んでいるとカイホツ領主などありますね

下新井

斉藤鶴磯という方が、所沢のニシに上新井、ヒガシに下新井、あり。いにしへは野老村の新しい居住地で新居なりしが、と書いているのですが、一旦止めますね。斎藤鶴磯さん、江戸時代の方なのですが、上下を西東と読ませているんですね。これ地名を見ていく上でとても重要な知見になりますのでちょっと覚えておいて欲しいなと思います。しかしこれを下新井は、所沢から分離した町ではない、と反発。控訴にまで発展したという歴史があります。まあシンプルに仲が悪かったんでしょうね

日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地

大正2年3月28日、木村さんと徳田さんの操縦するブレリオ式飛行機が突風を受け墜落。日本初の犠牲者を伴う航空機事故となってしまいました。所沢聖地霊園に記念碑があるのですが、墜落があったから墓地になったのか、墓地に墜落したのか気になるところです

西新井・東新井

それぞれ昭和43年48年に成立しました。戦後、所沢駅を中心に市街地が徐々に拡大していく様子が伺えますね

北原町

昭和57年、自治会の名称として使われていた北原がそのまま地名になりました。下新井の小字ですね

北秋津

土へんに高いと書く塙の反対語、圷。赤バッケなど断崖絶壁の多い地域ですので、アクツがアキツになったで問題ないと思います

吾妻

かつてこのあたりを吾妻庄と唱えたという伝承により命名されました。南陵中学校の校歌、ナンリョウ中学校、ナンリョウだけやけに早口なのは、もとは吾妻中学校だったからですね

久米

所沢市は分からないと言っているのですが、私は「久目部」大和朝廷の軍事を司る一族がこの地にいたのではないかと考えています。根拠は北野にある物部天神社、やはり軍事を担当する物部一族もこの地に派遣されているからです。何に睨みをきかせたのか、今となっては分かりませんが、物部天神社は式内社、中央政府にとってこの地が重要な場所であったのは間違いないと思います

久米川

東村山に久米川という場所がありますが、久米川という川はないですよね? 柳瀬川の古い呼び名が久米川。久米から流れ出る川という意味でしょうね

松が丘

西武不動産の宅地化開発による名称です。平成5年に正式に町名となりました。わたし松ヶ丘が宅地化される前の風景をギリ覚えてんですけど、トトロのオープニング、オート三輪で越してくる場面、あれ松ヶ丘ですよね、水天宮の下あたりではないかと思います

勢揃橋

1333年5月、鎌倉を攻める武士がこの辺りに集結、勢揃いしたそうです。立地的に第2ラウンド、久米川の戦いの前後でしょうね

荒幡

平安時代にまで遡る地名であるのは間違いないのですが分かりません。荒地を開墾した、で荒畑。富士見市の南畑も元は難のある田ですから、あるなあとは思うのですがやはり分かりません

荒幡富士

でかいです、極端にでかいです。所沢民は富士山が大好きです。北秋津に富士山に64回登頂した方の功績を讃える碑が建っていたりします

十人坂

十人が亡くなっている、なのでおまえらがチャリンコで暴走しているといつか十一人坂になってしまう、などとよく先生に注意されていましたが(わたし南陵なので)北秋津に上人塚という小字があるんですね、しかも由来は入定、即身仏でした。じゅうにん坂は上人坂だった、そんな気がするのですがどうですかねえ

住吉

住吉神社があると思った? 残念、ないです。たぶん住むには良いところだよーという意味だと思います

並木

所沢の小字です。現在の並木の範囲は広い物ですが、現在の並木の中にはかつて川越道、根岸道、地蔵道などの小字がありました。並木の広さは、飛行場になり、米軍に接収され、戦後の食糧難解消のため農地に戻され、という歴史の中で小字並木だけがかろうじて残ったその結果なのかもしれません

中新井

新井には上中下と東西があるんですね。うーん、どうかと思います

若松

昭和45年開校の若松小学校の校名をとり昭和50年に成立しました。若狭同様、ヤングな松井ですね

行政道路

敗戦、日米安全保障条約第三条に基づく行政協定により、現在の航空公園と入間基地がアメリカに接収され、この二つの基地を結ぶ道路の整備が進みました。行政協定による道なので行政道路と言います

所沢

ヤマイモ科のトコロが多く生じていた沢、と説明されることが多いのですが、トコロという植物は高燥地に多く、沢の字と結びつけるのは少し無理があるのではないかという解釈が頭一つリードしている印象があります

所沢は盆地であるので、地形の直感的形容からフトコロとなりトコロになった、と考える方もおられるのですが、所沢、盆地というほどではないですよねえ、分かりません

元町

では元々の所沢はどこなのか。これは元町付近だろうと思います。根拠は実蔵院さんの山号、野老山です。寺の成立した時代にはすでにこの辺りがトコロと呼ばれていたということになりますので、鎌倉街道も通っています、所沢は元町が発祥、で、問題ないのかなと思います

ところざわなのかところさわなのか

正式にはところさわです。昭和35年の国勢調査の際にそう決まりました、が、慣用としてところざわと呼称しても良い、なので、どうぞお好きな方でお呼び下さいませ。とこんざーでもオッケーです

こぶし町、緑町、けやき台、向陽町、泉町、花園、榎町、美原町、弥生町、青葉台、北所沢

深い意味はなさそうなので割愛します

旭町・日吉町

こちらも深い意味はなさそうなのですが、日露戦争の国債割当表にその名があり、明治末期にはすでに成立していたことが確認できます。日吉丸というお好み焼き屋がありました、学生時代行きつけでした

御幸町

大正元年に開催された陸軍大演習、所沢に来られました大正天皇の行幸を記念し、行幸の行に御の字を当てミユキと命名されました

寿町

大正天皇が来られた、めでたい、で寿の名が選ばれました

有楽町

宿場の表通りに対する裏町のウラに有と楽の字を当てユウラクと読ませました

さて、この辺りはかつて、上宿、中宿、下宿、所沢の宿場でした。それも中宿があるのでそこそこ大きめの宿場だったのだろうなと思います。けれど以上の地名から、この場所が江戸時代、多くの人で賑わったということを読み取ることが出来るでしょうか

地名にはその土地の記憶が刻まれています。事情、経緯はあったと思いますが、地名を消したことでその土地の記憶、歴史も消えていく様を目の当たりにしているような気もしてしまいます

ファルマン通り

明治44年4月5日午前5時37分、所沢の空を高度15メートル、1分20秒間飛行したファルマン機の名を取り命名されました。機体は航空自衛隊入間基地に現存しています

日本一長いけやき並木

同一県内(越谷ー入間)に起点と終点のある国道は全国的に見ても国道463号線だけ。ウラトコと呼ぶか埼大通りと呼ぶかは民族の違いによります

プロぺ通り

商店街にプロペ通りの名が付いた際、マスコットキャラクターの名前を公募、クラスのみんなで応募しようということになりました。はっきり覚えています、アップルちゃんと書きました、プロペちゃんでした、大人ってって思いました

東町

旧市街地の東側という意味ですね

喜多町

旧市街地の北側という意味ですね

松葉町

上新井の小字、松葉道にちなみ命名されたようです。ぎょうざの満州一号店は松葉町にありますね

くすのき台

東口ロータリー中央にあるくすのきのことですね

宮本町

宮の下、神明さまのある町という意味ですね。元は河原宿でした。河原、好かれる名称ではありませんが源頼朝なども立ち寄った歴史のある宿場名でした

地蔵山

西所沢駅は開業当初は地蔵山停車場という名称でした。地蔵山、うどん屋さんの屋号に確認できただけでした

西所沢

駅名を採用し命名されました

新所沢

団地の名称が駅名となり地区名となりました

金山町

この地に建てられた金山神社が由来であると考えられています。金山町あたりの方って自分たちのことを町屋とか言いますけど(え、私は山口の山猿ってこと? )金山は元は久米の小字ですね

星の宮

こちらも元は久米の小字でした。星の字のつく神社があった、と考えるしかないのですが分かりません

梨子ノ木戸

山口城の城戸があった、という解説を見ましたが、気になるのは梨子の方です、分かりません

大六天

第六天神社、もしくはそれに準ずるものがあったのでしょう。上新井に大六天と三文字のみ彫られた碑が残っています

椿峰

山口中学校の北の峰のあたりに、新田義貞がランチの際に箸代わりに使った椿の枝を地面にブッ刺したところ根が付いたと伝わる椿の木があったそうです

岩崎

地名とは、その土地を知らない人にその土地がどういう場所であるのかを伝える符号のようなもの。この辺りが狭山丘陵の尾根、岬であることが想像できますよね。岩崎、狭山丘陵の周辺には古くから人が住んでいた、ということを今に伝える地名なのかもしれません

打越

何処に行くにも尾根を越えていく、という意味があります。意外に多い地名です。鎌倉街道が通っていますからね、これも古い地名だろうなと感じます

山口

山の口、狭山丘陵の入り口です。登山口と言った方がイメージし易いでしょうか

上山口

西武ドームのあるあたりです。成立は明治8年、上の字が何を指しているのかは定かではないのですが所沢市は商業的な繋がりから(生糸)八王子ではないかと言っています

勝楽寺

奈良時代に渡来系の人たちが創建したらしい勝楽寺というお寺がありました。現在は移転して下山口駅の近くにあります。今日のところは勝楽寺の創建は高麗郡建郡よりも早いということだけお伝えしておきます

厳密にいうと所沢ではないのですが、堤防のこちら側、江戸時代、いわゆる姥捨山がありました。この辺りは生産性の低い、人里離れた深い山の中だった、ということですね。暑い寒い、立地が悪いアクセスが悪い、酷く叩かれる山口エリアですが、何を今更という気もしてしまいます(嫌味)

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