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古のスーパー直線道路【東山道武蔵道】

The long and winding road that leads to your door〜

今さら説明の必要もないビートルズの代表曲ですが、他にも

知らず知らず 歩いてきた 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道〜

美空ひばりさんや

曲がりくねり はしゃいだ道〜

米津玄師さんなど

どうも道というのは、細く長く曲がりくねっていたほうが洋の東西を問わず情緒を感じやすいのか、歌や詩になりやすいのかもしれません

しかし平成元年

そんな情緒を一切無視した

ぶっとくて!

真っ直ぐな道路跡が!

所沢市立南陵中学校の校庭から発見されます

道の幅は約12メートル。真っ直ぐに伸びる道筋は、もしや古より伝わりしスーパー直線道路

東山道武蔵道

の一部なのではないかと、それは大きな話題になりました

という訳で今回は、このスーパー直線道路を東京埼玉の県境、久米川古戦場より行けるところまでトレースしてみたいと思います

東山道武蔵道はなぜ巨大で真っ直ぐだったのか、そしてその道筋は令和の現代、どれくらい残っているのか、見ていきたいと思いますのでどうぞ最後までお付き合い下さいませっ

それではまず、東山道武蔵道の概要についてお話させていただきますね。東山道武蔵道とは奈良時代、もしかしたら原型はそれ以前に出来ていたのではないかとも言われる、中央政府の整備した官道、いわゆる五畿七道の枝道です

国家というのは、全ての道はローマに通ず、とも言いますがどこであっても道路網の整備にとても力を注ぎます。鉄道、電話、インターネットのない時代、道は人の移動、物流と同時に、情報伝達装置の役割も担っていたからですね

中央政府は各地に配備した国府、埼玉県は武蔵国なので府中ですね。中央と各国の国府を爆速で結ぶ道路の整備をしました。そして武蔵国は当初東山道(詳しくは埼玉はなぜ埼玉なのかという回をご覧ください)に属していましたので伝達を担当され方は、まあ原則リレーなんですけど、上野(群馬県)の国府に立ち寄ったあと、南下して府中、で、同じ道を戻り下野(栃木県)へと向かっていました

はい、ここで所沢市立南小学校の脇へ出ました

今来た道は鎌倉街道でした。鎌倉街道はここを直進、所沢の中心街へと進みます、けれど南陵中はここを左ですよね、もうね早くもね、東山道武蔵道と若干ずれちゃってるんですね

中央政府の整備した道のキーワードのひとつは「爆速」でした

山があるー川があるーでうねうね曲がりくねった道と、山も川もぶっちして真っ直ぐ引いた道、どちらが5Gだと思います? 真っ直ぐですよねw

南陵中学校の案内板に戻ります

東山道武蔵道の正面に狭山丘陵がありますね

ぴったり将軍塚のあるところです

そして将軍塚の傍には元弘の板碑と呼ばれる有名な板碑がありました。大きな板碑というのはそんなにお安く作れるものではありません。せっかく作ったのであれば多くの人に見てもらいたいというのが自然だと思うんですね

ということは、板碑があったということは、鎌倉時代の終わりには、まだここに人の往来のある道があった、と考えることが出来ますよね

そして鎌倉街道というのは、少し道を掘り下げるという特徴があるんですね

なのでここも単純に丘陵をこう通したのではなく、少し掘り下げて作られていた、切り通しと言います。実際、将軍塚の少し西側、尾根道が窪んでいるようにも感じます

が、狭山丘陵は赤土の塊です

雨が降ればぬるぬる

立地的にほんのちょっと迂回をすれば山越えを避けることが可能ですので、恐らく自然発生的に作られた道が、こちらの鎌倉街道だったのでしょう。後に鎌倉街道のメインストリート「上道」となっていきます

ただ私はやっぱり、真っ直ぐの道、あったと思います

白村江の戦いに負け、壬申の乱があり、遣唐使なども中断しました。国内が極度の緊張感に覆われていた、情報の伝達が一分でも一秒でも早く叶うのであれば、律令の持つ強烈な理想主義ではあるんですけれど、真っ直ぐを貫き通す、ここに迷いはなかった、ここに妥協を見る方が、私は難しいのではないかと感じます

道の幅の広い理由は有事の際、何千何万もの兵と物資を中央にスムーズに輸送するためであると考えられています

ちなみに奈良と地方の国府を結ぶ道を駅路、郡家、市役所みたいなイメージでOKです、郡家と郡家を結ぶ道を伝路といいます。箱根駅伝の駅伝は、ここに(律令)由来がありますね

新光寺、鎌倉へ向かう新田義貞が必勝祈願をした寺です。源頼朝もランチをとったことがあります

泉町のセブンイレブンを右に行きます。ここまでは鎌倉街道上道の道筋でした。右側の道は堀兼道と呼ばれることも多いのですが、今回は東山道武蔵道とさせていただきますね

しかし771年でした。実際、奈良と府中を行き来した人からの提案だったのでしょう。このような文書が政府に提出されます

武蔵国は東山道に属しているが東海道を使う使者も多くあるため、街道沿いの民衆が負担に耐えかねている。上野下野を結ぶ道は便利であるが、群馬県邑楽郡から五ヶ所の駅を経て武蔵国府へ向かい、また同じ道を戻り下野へ向かっている、無駄が多い。武蔵国を東海道に編入し、相模から武蔵へ向かうルートを確立すれば、官僚も民衆も馬も負担が軽減されるでしょう

こちらの文書、続日本紀の中にあるのですが、いろいろなことが分かりますよね

まず八世紀には、神奈川県から東京都に入り府中へ行く道がありました。ヤマトタケルの時代にまで戻りますが、ヤマトタケルの関東遠征のルートを見ると(古事記と日本書紀で若干違うのですが)三浦半島の走水から海路で上総へ渡り、下総、常陸、上野、そして甲斐でした。実はヤマトタケル、東京埼玉をほぼ無視して関東平定とか言ってんですね。まったくおふざけの過ぎるあんちゃんだな思うんですけど、ヤマトタケルが海路で房総半島へ渡ったのは、荒川利根川の流れる東京低地がまだ完全に陸地化しておらず通ることが出来なかったからでした。そのびちゃびちゃだった東京低地が八世紀には通行できるようになっていたということですね

次に駅が五ヶ所あると書かれています。平成元年、南陵中の校庭から道の遺構が発見される以前、この続日本紀の記述から東山道武蔵路が存在したのは確実なんだけれども、どこを通っていたのかがほとんど分かっておりませんでした。昭和45年発行の書籍です、幸手市の東側に道筋がありますね

こちらの先生は、文献にある邑楽郡と五ヶ所というワードから、東山道武蔵道は邑楽郡の五箇村を通っていた、と考えた。そして文字にしてはいないのですが、幸手の東、茨城県五霞町の可能性も捨てきれなかった、ためこのルートを推したのかもしれません(五霞町は違っていたらごめんなさい)

いや先生、府中に行くのに幸手はちょっと遠回り

今なら言えますけどね、考古学って地味だけどとても大事だし面白いですよね

こちらのクランク、現存する最古の地図でもすでにこの形になっているそうです。なぜこうなったのかはまったく分かっておりません

この提案書は受理され、武蔵国は東山道から東海道に所属替えをされることになりました。771年です、東山道武蔵道は政府の官道としての役割を終えました。が、しばらくは東山道に繋がる道として使われていたのでしょう、833年に、行き倒れる人が多いので旅人を救済する悲田所を置きたいという訴えが出されています

悲田処がどこにあったのか、はっきりとは分からないのですが、悲田処の名を冠したバス停や公園を作ってしまうなど所沢市が「うちでしょう」取りにいっている印象があります。もしかしたら元弘の板碑は所沢にあったのに現在は東村山市の徳蔵寺に保管されている、国指定の重要文化財を東京都に取られてしまった、悔しい、悲田処だけは譲れねえ、で、所沢は意地になっているのかもしれませんw

1333年5月15日

府中分倍河原で大敗を喫した新田義貞軍は、この道を狭山市堀兼まで退却してきました

分倍河原からは25キロの距離があります。たぶんノンストップだったでしょう、なぜこれほどの距離を退却してきたのか

追いつかれたらイヤだから?

あると思います。追いつかれたらとってもイヤです

なので、やはりこの道沿いにある武蔵国分寺七重の塔に火を付けてきました。でもさすがにちょっとやりすぎたかな、と、後に義貞は大きな後悔をしています

もう一つ大きな理由があります

飲料水です

堀兼周辺は柳瀬川と入間川のちょうど中間にあり、水を得ることのとても難しいエリアでした

不老川は水、流れてないことも多いですからね

堀兼には有名な井戸があります

コンビニも水道も無い時代、飲み水の確保の出来ない場所で一息つくなど出来るはずがありません。とりあえず堀兼まで行こう、そして次どうするかをみんなで話し合って考えよう、義貞はそんな逡巡を胸に堀兼まで退却してきたのかもしれません

しかしその日の晩でした

相模の大豪族、三浦の軍勢が堀兼に集結します

そんなドラマがあったのも、堀兼に井戸があったからでした

給食センターのあったところ、大きな道が出来て分かりにくくなりましたが、道筋がまっすぐ綺麗に残ってますね

武蔵野台地②で紹介した坂のない道、河岸街道です

東山道武蔵道は河岸街道から堀兼小学校までの区間、完全に消滅しています

狭山市水野周辺は江戸時代初期に開発をされた地域ですが、察するに東山道武蔵道はこの時点ですでに道としての機能を有していなかったのでしょう。畑の区割りも東山道武蔵道の道筋をまったく無視しているように思えます

堀兼神社までの道筋が残ったのは、堀兼神社の参道としての役割と、水の得られない土地だったがゆえに中世以降、草刈場、入会地(毎日の煮炊きをするための薪を採ったりするところですね)その程度の価値しか見出だせない、人の住まない地域だったから、というのがあったからなのかもしれません。遺跡なんかも出てないですよね、古墳もないですしね

というわけで新狭山の工業団地まで来ました、東山道武蔵道はここで一旦行き止まります

そもそもです、確かに爆速なのかもしれないんですけど、山も川も基本無視して真っ直ぐ道を引くなんて無理な話なんですね。だってこの先には入間川があります、例えばその入間川が、深い、とか流れが早いとかだったらどうします?

あ、寄り道してる風に見えるこちらの二ヶ所は、道には16キロごとに駅を設置し馬を置くことが律令により定められていました(だから駅という字は馬へんなのですが)調査の結果、南陵中周辺が府中から見て一番目の駅ということになりましたので、そこからちょうど16キロ地点を掘ったら「駅長」と書かれた器のカケラが出てしまった、二番目の駅である可能性が高い、八幡前若宮遺跡と

今回のテーマには関係ないのですが個人的に好きな的場たぬき山古墳です、で、少し上流に行けば

おい、広瀬って場所があるぞ

広瀬というのは丘陵地系が平坦地形に切り替わるところに付く地名だ。川の流れは穏やかになり横に広がる、渡れるかもしれねえぞ

浅瀬があるなんてことになったらどうします? こっちに道が出来ちゃいますよね?

さらに行けば荒川だってあります、群馬県との県境には、大河利根川も流れています

船を使えば良い?

あー、旅人のイメージですね。確かに政府の官道を外れ、政府の運営する渡し船が消滅しても、農民だって川くらい渡ります、船はあった、なんとかなるかもしれません

けれどもしあなたが武将だったらどうでしょうか

船にお馬さん乗せますか?

もし百騎を従えた大将だったらどうします?

船を百艘用意させますか? それとも百往復させますか?

無理なんですよ! 渡れないんですよ!

府中と東山道の間には四本の大きな川が流れています。多摩川入間川荒川利根川です

この大きな川のそれぞれ浅瀬、多摩川は分倍河原、入間川は狭山市広瀬、荒川は寄居町赤浜を繋ぎ、藤岡高崎方面を目指した場合、地図を確認してみて下さい

利根川を渡らないで済むんですね

この東山道武蔵道とは対照的ともいえる地形を考慮し作られた道が、後に日本史を揺るがす大きな合戦が数多行われることになる、鎌倉街道のメインストリート、上道です。鎌倉街道②上道は泉町のセブンイレブンをひとつの起点にします

ホンダの工場の北側、東山道武蔵道の痕跡は、川越市と坂戸市の境周辺に、鎌倉街道跡、鎌倉橋、小字古街道、大道脇など、ちょこちょことあるのですが、わざわざ見にいってもあまり、というか全然面白くありません。行くなら東京の国分寺市が良いと思います

特にこのマンション、出ちゃったんですねえここねえw

東山道武蔵道の道筋は、この妙に広い敷地の下に埋没保存されています。ぐちゃぐちゃっと描かれた色の違うところは東山道武蔵道の側溝、どぶの位置を表しています

今回もまた長めの動画になってしまいましたが、最後まで見てくれた方はきっとこのマンション、楽しんでいただけると思います。国分寺に行くなら小手指の地名の由来の回もぜひ見ていって下さいね

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