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一点物を売ることの責任
こんにちは!スタジオサイタマ合同会社の加藤です。
埼玉県の伝統工芸「和竿(竹釣竿)」の販売と発信について日々考えています。
今回は、オンラインストアをリリースしてまだ一週間足らずですが、"工芸品"を取り扱うには、想像以上に重い責任を負わなくてはならないな、と気づき始めたことについて書きたいと思います。
もともと思っていたこと
和竿が釣り具を選ぶ時の一つのオプションになればいい。だけど今はオンライン上での露出が少なく、販売チャネルへの到達難易度も高い。そのせいで商品購入時の比較検討のラインに乗れていない。これが1番の課題だから、解決しよう。
道具として確かに優れているのだから、販売チャネルと到達経路をきちんと整備して、並行してその実用性の高さや魅力について認知を増やしていければ、時間はかかるかもしれないけれど、一定購入してもらえるようになるだろう。
そう思っていました。
実際、今でもこの考えは変わらず持っているのですが...
それはあくまで、すべてが合理的な世界での手法の話。
工芸品を人々に届ける上で、合理性だけで語るということは不適切、あるいは足りないと思い始めています。
手作りということがどういうことか
和竿は、複数の竹を繋ぎ合わせてつくる、「継竿(つぎざお)」が主流です。職人は何千、何万本の竹から太さ、長さ、硬さ、美しさを吟味し、厳選された異なる竹素材を組み合わせた末に、一本の竿を生み出します。
これは、紛れもない"一点物" です。素材すら世界で一つ、その上、究極に"人"に依存した工程を経て出来上がる。存在することが奇跡といってもいいようなバランスのもと生み落とされた、手工芸品。その分商品の値段としては市場の他の商品に比べて高価になります。
費用対効果の論理から言ったら明らかに非合理的ですよね。生産工程も、ユーザーの購買行動も。
そんな非合理性の上に成り立つ存在を、合理性の尺度のもと他の商品と一列に並べるのは無理があるんじゃないのか。
非合理性を扱う責任
大量消費の世界ではない、工芸といったものの提供主体としての責任があるとすると、売り手と買い手の、体温のある、密なコミュニケーション手段を持つことなんじゃないかと感じています。
相互の価値観を手触り感のある形で知り、理解し、納得し合う。人と友達になったり、結婚したり、もしかしたらそういう活動と一緒かもしれない。満たされるまでのハードルが、日用品や消耗品、機能を求めて手にするものとは比べ物にならないぐらい複雑に、何重にもはりめぐらされてる。もしかしたら怒りながらも最後には許してあげるという覚悟も必要かもしれない。
普通に生きてて、そんな体力なかなか使いたくないですよね。
だけど、世の中の工芸品は、和竿は、そんな体力を特別使いたいと思ってもらわなくてはならない。そして、合理性 では到達できなかったであろう幸せを獲得してもらわなくてはならない。
向き合うべきは
当然自分も業界のすべてを知ったわけではありませんが、「釣り」、「伝統工芸」というラベルの貼られたもの、それを取り巻く人々の価値観が多様なことを日々感じます。
その中でまったくの齟齬を産まず、誰も傷つけることなく居るというのは困難であろうことは想像できます。
それでも一つ言えることがあるとすると...
何千、何万本の竹から厳選され、組み合わせた奇跡の一本のように、その和竿一本との出会いも奇跡的なものでなくてはならない。まさに自分がはじめて和竿を使ったときと同じように。
自分が向き合わなくてはならないものは、そういうものなんだろうなぁと少しずつわかってきたような気がします。
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