なんで勉強をするのか?の答え
◆こんにちは。公立小学校教員のねこぜです。今日は「何のために勉強するのか?」、「この知識は何の役に立つのか?」といったよくある、しかし、しばしば問題になる問いについてのアンサーを書いていこうと思います。参考文献は内田樹先生の『下流志向』です。みなさんだったらこのような問い掛けがあった場合にどのように答えますか?読み進める前にちょっと考えてみてください。
1.答えられないが答え
結論を先に述べます。「何のために教育を受けるのか」という問いに対しての答えはありません。正確に言うと答えようのない問いには「答えられない」です。子どもにとって教育は「教育を受ける権利」として存在しています。義務を負うのはその保護者であって子どもではありません。「なんで勉強しなきゃいけないの?」と言う問いは「なんでこんな権利を行使しなきゃならないの?」に置き換わります。他に権利には生存権がありますが、同じように考えると「どうして健康で文化的な生活を営なきゃいけないの?」となります。こんな問いを立てる人はなかなかいません。他の切り口でいくと「どうして人を殺しちゃいけないのか」という問いがあった場合に、そう問われたら戸惑いませんか?なぜそのような問いを発してしまったのか、その背景を考えていかねばなりません。
つまり、「何のために勉強するのか」という問いがあること自体に何か歪みのようなものがあるということです。そして、それは決して一問一答で答えられるようなものではない。もし、スマートな答えをもっているとしたらその答えを疑う必要があるとも言えます。
そこには、現代社会における消費者マインドが子どもの頃から刷り込まれていることに一因があると内田先生は指摘しています。そしてそれはもはや例外的な事態ではなく今日的に言えば当たり前の様子になりつつあります。
2.学びの起源とは
消費者マインドについてはまたの機会に触れたいと思います。その前に、学びの有用性「何のために学ぶか」が答えられないことについてもう少し深堀りしておきます。
母語(これを読んでいる皆さんの多くは日本語になるでしょうか)の習得が人生で最初の学習であると言えます。では、その母語の学習において、何のために学ぶかを知った上で学び始めた人はいないはずです。
このことからも、小学校に入学してひらがなを学習したり、算数を習ったりするときも、何のためにそれを習っているのかを言えないまま習い始めている、学習の渦に投げ込まれている、そうした流れの中で、事後的に学びの主体性を帯びるのだということです。日本語を喋れなかった幼児が気付いたら少しずつ話せるようになっている。それは、日本語が話せるほうが得策だと判断して選び取った結果ではありません。
学習する前には知らなかったことが、学びを通して様々なことに気付いたり身に付けたりしていくことで事後的に学びの意味や有用性を実感として帯びてくる。そういうものなのだと内田先生は述べています。だからより現場目線の話をすると、例えば、体育の授業では、あれこれ説明などせずにまずは「やってみよう」の時間を設けます。やっていくうちに「このルールでやってみたらどうか」「あの技ができるようになりたい」など学びの志向性が出てきます。国語の物語文で最初の場面だけとりあえず読んでみると、「続きはどうなってるのか」「なぜ主人公はこうも憂鬱そうなのか」など物語の世界に引き込まれていきます。その結果、学習が終わった時には、学習する前とは別の人間になっている、教育とはそのような極めて時間的な行為なのだと言えます。
繰り返します。「なんで勉強しなきゃいけないの」という問いには答えられない(答えない)ことが正解なのです。
◆最後までお読みいただきありがとうございます。学びの本質を考える上でも非常に考えさせられる問いだったと思います。しかし、この問題は社会原理に関係のある思った以上に根深いものです。また、機会がありましたら書いていこうと思います。
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