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ねこぜの心理学入門「河合隼雄」

◆おはようございます。小学校教員のねこぜです。養老孟司先生の著書や話の中に、よく河合隼雄の名前が出てきます。河合隼雄先生は臨床心理学者で、ユングを専門的に研究された方です。臨床教育学をつくったということで、河合隼雄著『子どもと学校』を読みましたので、アウトプットしていきます。よろしくお願いいたします。


1.臨床の視点から

われわれが床につくのは、死のときだけではない。その他にも、病気、休息などがある。そして、一般的には病気よりは健康が、休息よりは仕事が価値あるものとされているときに、病気や休息(それを広義に解釈して、遊び)の方に光を見出すような価値観をもって、教育を見直すことはできないだろうか。
河合隼雄『子どもと学校』

 真っ先に自分の経験が思い起こされた。若手の頃、健康体そのもののとき、「健康が一番だよね」の意味が分からなかった。病に倒れ、入院を余儀なくされた自分は「健康のありがたさ」を痛感した。病気によって健康を知ったわけである。病気はそれまでの外的活動を強制的に停止させる代わりに、内的な世界があることを気付かせ、目を向けさせてくれるのだ。それこそ、生き方であったり、働き方や家族や自分自身の大切さを振り返ることになったのだった。こうした内省は、子どもにも必要であると河合先生は指摘する。

 子どもたちも、時に止まって内面を見たり、あるいは内的成熟の進行中は、じっと立ち止まっていたりすることが必要である。このようなことは成長の節目に起こることが多く、案外そのようなときに病気になって、「よかった」と思ったりする。子どもの場合は、心と体との境界が大人ほど明確ではないので、そのような意味での休息が、体、心、心身症などの、どの病いとしてあらわれるかわからないほどである。
『子どもと学校』

 ところが、最近は医療の発達に加えて、遊びに対する危険回避主義も貢献し、簡単に病気したり怪我したりして内面化の機会を得ることができなくなったのではないかと指摘されている。その調整として「不登校」や「引きこもり」が起きているのではないかと。そしてこれは「必要な引きこもり」であって、健康な反応であるかもしれないと河合先生は言う。
 思春期や反抗期と言われるような時期に、自分の部屋にこもって漫画を読み耽ったり、好きな音楽をずっと聞いていたりという経験は多くの人がもっているのではないだろうか。河合先生は蝶の比喩を用いて、人間も同じように子どもから大人へと向かうとき、サナギの時期があるのだと言う。そのサナギの時期に「なんでサナギになるの?」と理由を問い質し、殻を割るなんてことはしてはならない。加えて言うなら、毛虫時代がダメだったらサナギになったんだ…なんてこともない。

 「何が原因ですか」ときかれるとき、私はよく「原因などわからなくとも、これからよくするために、皆が何をしたらいいかを考えましょう」と言うことにしている。過去をふり返って悪者探しをするよりも、未来に向かって、よくなる道を探し出すためにともに努力してゆきましょう、というのである。ー中略ー
 毛虫が蝶になるにしても、これだけ苦労しているのだから、人間の子どもが大人になるのに、何の苦労もなく、波乱もなくなれると思う方がおかしいのではなかろうか。
『子どもと学校』

 僕はこれまで、自分のクラスでも他のクラスでも何人も不登校の子を見てきた。受け持った子が進級したり進学したりしたときに不登校になることもあったし、僕が受け持ってから不登校になったこともあった。その度に、自分を責め、原因を探ろうとしていた。もちろん、自分の指導力不足や環境配慮が足りなかったことはあるだろう。ただ、そうなってしまったときに、河合先生の仰るように、未来を見据えたい。この先、自分にはどんなことができるか、登校刺激を与えるのか与えないのか、その時その時の状況判断を見極められるように右にも左にもポジションをずらしながら動いていくしかないのだろう。難しいところである。

2.教育の難しさ

 教育に課題のない国、時代は存在しない。そう言えるほど、教育に関係する諸課題は後を絶たない。ずっと変わらずある課題もあるし、社会情勢の変化で新たに浮き彫りになった課題もあろう。
 『子どもと学校』が出版されたのが1992年である。その時点において河合先生が特に言及したい教育の課題は3点。
 ①国際化
 ②個性の伸長
 ③生涯教育

 国際化というと、小学校では近年、外国語が教科化された。世の中的には、この30年でグローバル化はかなり進んだ。そんな30年前に河合先生は指摘している。国際化とは、「外国のことをよく学びましょう」とか「他の国の人たちと仲良くしましょう」などという類のことではないことを。
 残念ながら小学校では、上記のような台詞が未だに飛び交っている。その台詞自体が悪いのではないが、何か本質を見落としているように感じる。国際化するということは、自分たち日本人の生き方そのものについて知っておくことが必要であって、時にはその生き方においてぶつかり合いもありうるような、きれいごとでは済ますことのできない重いものである。

 次に個性の伸長。「教育」という言葉において「教える」ことがクローズアップされがちだが、「育てる」「育つ」の自動詞、他動詞の方に注目せよと河合先生は言う。近年では、知識偏重型の教育や、答えのある問いにできるだけ速く解くようにする教育は前時代的だと考えられるようになってきた。自然に、子どもが自ら育つことを大事にしたいというのである。

「自然」なのだから、何も工夫はいらないようなのだが、その点について考えたり、工夫したりしなくてはならないところに、現代の教育の難しさがあると言っていいだろう。
ー中略ー
教育における「教える」と「育つ」ということは、子どもがまったく自分で「育つ」のならば、「教える」必要はないとも言えるわけで、このような矛盾を内包しているところに、教育の特徴があると言うこともできる。つまり、「育つ」ことが大切と言いつつ、やはり「教える」必要性を認めているわけであるし、「教える」ことが大切と言うときも、教えることが可能になるように「育っ」てきていることの必要性を認めねばならないのである。
『子どもと学校』

 また河合先生は、「子どもの自主性に任せてますから」と自由を誤解し、放任することに警鐘を鳴らしている。一方で、積極的見守りとも言うべき、「関心をもって見守る」ことの難しさと大切さを説いている。僕もしばしば、見守ろうと決め込んでも「それはね…」と手を差し伸べたくなる。たしかに適切な場面で適切なフィードバックは必要だろう。しかし、その適切かどうかは大人が判断している。

「あの子、あれで大丈夫かな」、「けんかをしているけれど、もう少し子どもたちにまかせてみよう」などと心の中が大車輪で動いていても、落ちついてそこにただいるだけというのが、理想の教師と言えるのではなかろうか。
『子どもと学校』

 安全面への配慮は外せないが、普段ここで一言入れようと思っているタイミングをぐっとズラしてみる。このような河合先生の主張も含め、指導観や指導法も多様である。それぞれに一長一短があることを意識して、その葛藤状態に身を置くこと。悩みつつ判断していくことで、教師としての力量形成を図っていくことができるのではないだろうか。


◆最後までお読みいただきありがとうございます。さすがに3000字を越えたので区切りとします。最後に、健康と病気、仕事と休息のような二項対立について述べましたが、自立と依存は対立関係ではないと河合先生は指摘します。

「自立」している人は、適切に他に「依存」している

やはり「持ちつ持たれつ」な関係がここにも理想像として表れてくるような気がしています。

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