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ねこぜの現代思想入門「鷲田清一」(2)~持ちつ持たれつな関係~

◆こんにちは!教育について全く文章が書けない小学校教員のねこぜです。よろしくお願いいたします。今回は鷲田先生の思想について、第2弾です。そして三日坊主脱出です。昨日ある程度書きあげていたことは内緒です!よろしくお願いいたします。

▷持ちつ持たれつな関係
「持ちつ持たれつ」であると表現される場合には、大抵が良い意味で使われている。夫婦関係やパートナーと、或いは仕事仲間、友達同士でもいい、あなたは「持ちつ持たれつ」な関係を築けているだろうか。これは何も家事や育児を夫婦できれいさっぱり折半しているとか、同僚と足並み揃えて仕事しているとか形式的なことを指しているのではない。傲慢で亭主関白な夫を陰ながら支えている妻、仕事のミスに相方が気付いてそっとフォローしておく、そんなところにも「持ちつ持たれつ」は備わっている。適材適所とも似た「これは得意だからやっとくよ」「ごめん、これやっといてくれる?」そんな会話がごく自然にできたらそれはそれは素敵なことだと思う。
 少なくとも私は家庭でもそして教室でもそう振る舞っているつもりだ。
 特に、教室にいる子どもたち前で完璧な教師、絶対的な教師とならないようにしているつもりだ。子どもたちも実は頼られるのが好きで、最早頼ってもいないのに「先生、あれやっときました」「これ配ってもいいですか?」と実に能動的に動いてくれる。ついにはその報告すらなく配布物がきれいさっぱり片付いていることさえある。

 よいコミュニティというのは本来、消費活動が少ないものだということでしょう。ちょっと助けて、ちょっと手伝ってと言えば、どこからともなくだれかの手が伸びてくる。困ったことがあればだれかに教えてもらえる、足りないものがあればだれかに貸してもらえる、用事ができたらだれか子どもを(あるいは介護の必要なお年寄りを)見ていてと頼むことができる……。
 そういうじかの交換の中に身を置いている暮らしに、森田さんは注目したのです。

『濃霧の中の方向感覚』

 今は職住不一致の時代。郊外に家をもち、日中は都心のオフィスに勤労することが当たり前な時代。働く大人のあいだを子どもが走り回り、子どもは大人の働く姿を横目で見、といったことが起こりえない街になっていることに歪さと違和感を鷲田先生は感じている。続けて鷲田先生はこのような勤労をミニマムな出稼ぎだとし、働く人が抽象的な「労働力」として扱われていると指摘している。
 要するに1人1人を個体識別していない、ここに問題点があるように思う。自分が他者に認識されている、認知されていることは思いの外重要なことである。個体識別されない、自分というものが痩せ細っていく、ついには「あんた誰?いたの?」状態となる。消費社会ではこれが顕著だと感じる。商品を買ってくれるなら客が誰だろうと関係ない。商品が手に入るなら誰が接客してくれようとも、誰がそれを作っていようともどうでもいい。相手の顔が見えない、見えているけれども認知しない、大量生産大量消費社会の弊害である。だからこそ、家庭では、教室では、職員室では、相手の表情を見、声を掛け、「持ちつ持たれつ」な関係を構築しようというわけである。

京都市立芸術大学には独特の教育方針があって、在学中からそれぞれに専門の実技を磨くが、同時に別の技をも一緒に一定度学ぶ。彫刻をやっていても版画、染織、陶芸の技術も身につける。弦楽をやっていてもピアノ、声楽もこなす。問題はその次である。自分の特技を、自分の得意でない別の領域でも活かせるよう鍛えるのである。アーティストが自身の分野で表現スキルを突きつめるのはあたりまえ、それよりも「スキルと呼ばれるものは、隣の芝生に行って発揮されなきゃだめなんだ」(美術学部教員・小山田徹)という思いが教育のなかにみなぎっているのだ。

『濃霧の中の方向感覚』

 じぶんの専門領域でなくとも、基本は学んでいるので、起こっている問題はあるていど察しがつく。そこでこんなふうにしたら、と声をかけたくなる。これは教育にとって非常に大事なことだと思う。ちょっと声をかける、手伝う「持ちつ持たれつ」な関係を築き、好きなことも、ちょっと苦手だなと思うことも併せてとりあえず学んでおく。そんなマインドを子どもたちに育んでいきたい。

◆最後までお読みいただきありがとうございます。うまく伝えられたか分かりませんが、息苦しいのは誰だって嫌なはず。風通しよく、気持ちよく生活するにはどうしたらいいのか。もちろん、人との関わりが煩わしいという人もいるでしょう。しかし、モノやコトを通して人は人とつながって生きています。ただの顧客として、消費者として人生を「消費する」のはやめて、温もりを感じながら生きたいものです。

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