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6月13日は、桜桃忌。でした。

【風が吹くと、桜桃忌】
 言葉優先で私の記憶に刻まれている「桜桃忌」。桜桃忌とは太宰治の忌日だが、それは私にはあまり実感の持てるところではない。風が吹くと桶屋が儲かる方式で、昔の自分から派生して、派生して、最後に記憶に鎮座しているのが「6月13日は、桜桃忌。」ということに過ぎない。しかし、毎年6月13日には思う、今日は桜桃忌だ、と。


【ジャケ買い】

 中学生の時、今で言うジャケ買いをした。ある時、テレビのCMでとてもキャッチーなフレーズの歌が流れていた。グリコアーモンドチョコレートの宣伝だった。

 あの頃のCMで流れる歌のキャッチーさといったら、テレビの置いてあった部屋の景色とセットで覚えているから、きっと、そのフレーズが聞こえてくるたびに、はっとして反射的にテレビの方に振り返っていたのだと思う。歌とセットなのは、その瞬間のテレビごとの情景なのだ。そのくらいキャッチーだった。

 たしかファンタの宣伝では、松山千春の「夏」というタイトルだったかな、「時代(とき)を越えて」だったかな、そのフレーズも、鮮やかだった。爽やかな山間の急流を上から映したような映像に重ねて流れる「そこから 明日が見えますか 二人の明日が 見えますか」とかいう、ヒグラシの音の響く静けさを思わせる水晶のようなフレーズ。

 そしてそういう歌たちは当時、毎週の歌番組『ザ・ベストテン』にもすぐ反映されていたものだ。今ではほとんど見なくなったテレビが、いろんなキラキラしたものを私のところまで運んで来てくれていた時代のことだ。


【アナログ情報収集網】
  大空に群れなす鳥たちよ
  君の声を見失うなよ
  青春を旅する若者よ
  君が歩けば そこに必ず道はできる
  (永井龍雲「道標(しるべ)ない旅」

 グリコアーモンドチョコレートの宣伝の中で聞こえてきた「君」は、私であった。10代始まってそこそこだったはずの私もちゃんと、一端の青春を旅する若者の一人として勇気づけられ、このフレーズを聞くたび、身震いするほど気持ちよかった。やがてその歌は「道標ない旅」というタイトルで、それを作ったのが永井龍雲という人だということがわかった。

 タイトルや歌手名は、ほんの数秒間ならCM中に小さい字幕ででも目にしていたのかもしれないけれど、それをしっかりと腹に落とし込むまでに、あの頃の貧弱な情報量の中、どうやって知っていったのだろう、とよく思う。

 2歳上のお姉ちゃんがいて深夜ラジオもよく聴いていた歌好きの友達は、貴重な情報源だった。自分では、ニューミュージックとかフォークソングとかの、ギター用のコードが振られた歌詞の本や楽譜を買っては、隅から隅まで舐め尽くすように読み、使った。
 そのふた通りしか、通りすがりのような歌との一瞬の出会いを確実な情報にしていく手立ては思い当たらない。


【おテレビ様時代】

 テレビCMのその「通りすがり」具合といったら、ほんの数秒?数十秒?で姿も声も消えてなくなってしまうわけだから、ストリートミュージシャンの前を通りすがって足を止めるかどうか考えるような、悠長な時間はない。気まぐれにCMが始まるたび、あ!と手を止めてテレビの方を見やる。全神経を集中させる。テレビさまのご都合に合わせた、従順な生活。

 だらだらと録画しておける機器を持っていたわけでもないから、リアルに流れる時間内での勝負だ。ザ・ベストテンの順位を書き留めたり、気に入った歌の歌詞を、字幕も無い中、紙と鉛筆で構えて書き取れるところまでがんばって途中までしかわからないままになって笑ったり、疑いもなくおテレビ様のご都合最優先の世界の中で、せいいっぱい生きていた。

 テレビの情報は一方通行だから視聴者は受け身にならざるを得ない、とは一概には言えないぞ。結局は流れ出る情報の質と、それを受け止めたい姿勢との、引き合う力の問題だ。あの頃は、一方通行だったからこそ、興味のあるものがいつ来ても受け止められるだけの瞬時の集中力、吸収力が養われた。
 双方向性のネットが発達し、思いついてすぐ録音、録画できるようになった今よりも、よほど効率良く必要なものを自分に刻み込めていたような気がする。


【レコード屋という宇宙】

 そんな情報アナログ時代のその頃、永井龍雲の「道標ない旅」を求めてだったのかそうでなかったのかは覚えていないが、町なかのバス停でいえば2停分程度かな、の距離にあるレコード屋さんに、行ったのだな。
 一人で、きっと無言で、いつものぶすっとした顔でてくてく歩いて、行ったのだろう。自分でかき集めたキラキラした情報から判断して、少ないお小遣いを使おうと大きく決めた、貴重な日だったはずだ。

 何か新しい音楽を仕入れるならあそこ、としか浮かばない個人経営のレコード屋さんだった。いつも正面の奥に一人座っていた男性の店主が選んできたレコード、レコード会社から当たり前のように届けられて受け身で置いていただけのレコード、しかしどれも、あのおじさんの責任の届く範囲にあった、レコード盤という「物」の数々。一枚一枚が、樹木みたいなものだ。その幹一つ一つが、A面とB面の枝それぞれに音楽の実をつけてぎっしり立っていた。

 あの小ぢんまりとした空間に、今となっては1曲につきやたらと場所をとっていることになるLPやシングルのドーナツ盤がぎっしり並んでいた店内には、いったい全部で何曲存在していたことになるのだろう。
 ダウンロード時代の今と比べて、なんと限られた曲数であったことか。それを私の目の前に広がる世界、宇宙の全てとして、その中からたった1枚を選ぶのがレコード店だった。揺らがぬ基準で、決められた宇宙の全ての中から私は1枚を引き上げた。


【うちのレコードプレイヤー】
 そのジャケットには、草の上に寝転ぶしなっとした女性の絵。桜と桃と忌という、美しいのやら悲しいのやらわからぬ不明の文字列。小銭をジャラジャラと出したのか、貴重な千円札を差し出したのか、とにかくよくまぁ、そんな未知のものを買ってみることにしたものだ。

amazonさま。おありがとうございます。



 並ぶレコードの中に「永井龍雲」が見出しとしてあったのか自分で探そうとしたのか、あるいはただ端から見ていって知っている名として目に留まっただけなのか、そして「道標ない旅」が無かったからなのか、あったけれどそれよりその女性の絵とタイトルの文字に強い魅力があったからなのか、もはやわからない。
 とにかく、買うと決めた判断に迷いは無かった。きっとまた無表情でてくてく家に帰って、そしてすぐ聴いたことだけは間違い無い。その日、そしてその翌日からも、どのくらいの期間聴き続けたのだろう。ジャケットの絵もそれはそれは長いこと眺めた。裏返して歌詞も舐めるように読み返した。

 うちのレコードプレイヤーは、誰に愛用されていたわけでもなく、ただほんの時々使うこともあったものの、印象としてはなんとなくずっとうちに在った、という程度のものなので、私が歌に興味を持って頻繁にレコードをかけるようになってから、レコードを置く回転台が、ちょっとこれうねってるんじゃないのかね?と気づいたり、針というのも古くなるから交換しないといけないらしいよとか、レコードの溝の埃はまめに拭き取らないといけないんだって、というようなこともわかったりした程度の、そんな環境だった。

そうか、今も現役。レコードクリーナー。


【「壊れかけのRadio」的な。】
 とにかく音は、歪んで流れていた。音が飛ぶこともあった。音が飛ぶ件についてどこからか親が仕入れてきた情報によると、以前のどっぷり昭和な歌謡曲なんかに比べると、昨今はやりのニューミュージックとかいうやつは、一曲が4分以上あって当たり前というぐらい長いので、同じ面積の盤面にそれまでより長い溝を掘ることになる。そしたら、いわば溝が混み合って、溝と溝との間が近くなるため、そして、溝が浅くなる、とも聞いたかな、そんな理由で、針がすぐ隣の溝に移りやすくなってしまう、ということだった。なんか、なるほど。

 アナログ時代のど真ん中、ニューミュージックという当時の新しさに対応しきれない技術の悲しさだ。その説明を聞き、新しい音楽、ニューミュージック側に立つ者として、私はするりと大きな心でその不完全さを許した。
 というか、そんなことは実は、何の障害でもなかったのかもしれない。レコードの中に入っている歌を聴こうとしているだけの、自分の中の光の直線みたいな欲求は、歪みや、音飛びすら難なく飛び越え、淡々と、着実に、歌にたどり着いていたから。

ね。キレイなもんだ。
買ってもらってから40年以上経つというのに(笑)


【歌を追う、歌の中を走る】
 ジャケットのしなっとした女性は、竹久夢二の絵だった。夢二という画家の名も、そこで知ったのだったと思う。歌詞の中の「本棚の片隅に あなたから借りた太宰」というフレーズは、子どもには手のつけようが無かった。手負の獣に怯える小柄な猟犬のように、構えの姿勢ばかりに力を入れては、やけに遠巻きに眺め続けた。

 あの古いレコードプレーヤーの前に座って、中学生の私は歪んだ音の中から的確に歌詞とメロディの一つ一つを取り出しては向き合いながら、きっと長い時間を過ごした。1枚のシングルレコードから、溢れんばかりの感覚や感情のひだや知識を体験した。それらは、今現在の私につながる。

  襟元に吹く風が 心地よく肌に馴染む
  衣更えが恋しく思える 今年も夏が来た
  帰らない青春と ともに戻らぬ人
  いつもならば 忘れているのに
  思い出す 桜桃忌
  (永井龍雲「桜桃忌 〜おもいみだれて〜」


 私はずっと太っていたから、衣更えで薄着になっていく季節は、体を隠せる布の面積が減ってしまうのが本当に嫌だった。友達や世間の人の多くは、自分の生まれた季節を好きだと言うのを聞くが、私はいくつもの自己嫌悪が重なって、自分の生まれた6月をほんのつい最近まで好きにはなれなかった。この歌は、衣更えが恋しいなどと、当たり前のことを言う大人の歌だ、と一瞬思った記憶もある。

 でもその後に続く歌詞には、私の経験とは縁遠かった命や生きることが謳われている。こういう大人の世界が広がっていたことを垣間見てからは、何の意味も感じられず嫌気のさす日々の学校生活から戻っては、限られた自分の時間の中、真剣に歌の中の人たちの後を追って、走っていた。そしてどこか、やはり「あなた」は私であった。

  若さは時として残酷で
  小さな生命(いのち)さえも 奪ってゆく
  あなたは 他の誰よりも素直に生きていたわ
  でもほんの少し先を 急ぎすぎただけのこと
  (永井龍雲「桜桃忌 〜おもいみだれて〜」


【太宰じゃなく、夢二】
 そこから私は、太宰の方には行かず、夢二の方に進んだなぁ。画集だけでなく、夢二の日記も読んだ。
 たしか、寝ている子供を置いちゃあ女性と会いに行くわ、女性が結婚するとなりゃ結婚なんて自分の肉をこの男に与えると社会に宣言してしまうような行為だからやめろ、的なことを手紙で言うたりするわ、あーもうやれやれこんな男、と感じつつも、私は夢二が目の前にいたら結局はこっちが好きになってしまって悲しんでしまうんだろうなぁ、この人は美人が好きなんだから片思いだよなぁ、とか一人でチラチラ考えたり、勝手に苛立ったりして、バカバカしくなったりもしていた。自分にも、やれやれ、だった。

 初めて東京に行った時には、雑司ヶ谷のお墓にまで行ってみたりもした。ユーメージンの墓を見に行くやつっているよね、と嗤う人もいたが、やはりこの自然石の滑らかな曲線の墓石の下に、その人の肉体の一部だったものが実際に在るというのは、最も近くでその人をリアルに感じる方法でもあるからなー。私には意味のある行為だった。
 墓参りをすりゃいいというものではないが、そういう思いでお墓に行く時には、やはりつながっているのだと、私は思うがね。


【微風が吹くと、桜桃忌】

 中学生の私がさんざん眺め尽くし、舐め尽くしたシングル盤「桜桃忌」は、探してみたけれど今は手元にないから、過去をすべて捨て去りたいウネリが訪れた時に(笑)手放したに違いない。私の手垢のついたあのレコード、今頃はどこかのブックオフかネットかで売られているのだろう。

 絵のタイトルは「微風の丘」という。洋装で草の上に仰向けに寝転んで、組んだ両手を頭に助(す)けてこちらに顔を向けている女性の伸びやかさと、その草の色あいと、桜桃という文字の薄いピンクの連想と、命にまつわる初夏の重たさとが、静かにがっちりと結びついて、時間を超えた大切な一人の時として私の中に保存されている。ふだん目にする6と13という数字にすら、淡い初夏の眩しさや緑とピンクと少し黄色も混じったような、色合いを感じる。

 結果として、太宰に何の感情移入もすることがないまま、私は毎年6月13日になると、ああ桜桃忌だ、と思うのだ。風が吹くと桶屋が儲かり、微風が吹くと私が思い出す、桜桃忌。

竹久夢二「微風の丘」ふう。

 よく見たら、両手は組んでなかったんだな。

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