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変わり行く薩摩土手

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薩摩土手とは、江戸時代初期に薩摩藩が安倍川の氾濫を防ぐために関わった堤防のことである。 変わり行く薩摩土手 1 これまでの様子 2 安倍川の流れの変更  3 藁科川と安…
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安倍川の水の流れ

河川の源流 安倍川は、静岡県と山梨県の県境に源を持ち、静岡平野を形成しながら駿河湾へと流…

祭門飛鳥
10日前
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変わり行く薩摩土手 総集編

(要約) 薩摩土手とは、江戸時代初期に薩摩藩が安倍川の氾濫を防ぐために関わった堤防のことで…

祭門飛鳥
5か月前
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変わり行く薩摩土手 はじめに

 薩摩土手は、江戸時代に島津家が安倍川の氾濫を防ぐために築いた堤防である。  その石材は…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 1 これまでの薩摩土手の様子

薩摩土手の歴史については、様々な見解があることは事実である。 一つには、薩摩土手は、江戸…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 2 安倍川の流れの変更

 薩摩土手は、江戸時代に薩摩藩が静岡市北部の河川改修工事を行った際に築かれた堤防である…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

 藁科川は駿河湾に注ぐ一級河川で、流域面積は約 160平方キロメートルである。  安倍川…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用

 安倍川薩摩土手は、雁行堤方式を採用している。  雁行堤とは、河川の中央に小さな堤を作り、両岸の大きな堤と連結することで洪水を防ぐ方法である。  安倍川には、薩摩土手から北へと七堤の雁行堤が設置されている。  安倍川流域には、江戸時代から明治時代にかけて新田開発が盛んに行われた。  新田とは、河川や海岸などの水辺に土地を造成して耕作することである。安倍川両サイドには、20を超える堤が築かれ、同数以上の新田が開拓された。これらの新田の名称は、開発者や地名などに由来している。

変わり行く薩摩土手 5 駿府城と薩摩土手

① 駿府城築城と築堤の関係性  駿府城は、徳川家康が東海道の重要拠点として築いた城であり…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想)

① 川辺城構想の概要  家康は、駿府城の西にあった川辺町に、海外との交流や防衛の拠点とな…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示

   薩摩藩は、駿府城の西側にある安倍川の氾濫を防ぐとともに、城下町の水害を軽減する目的…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 8 各藩への造船時の500石制限

8 各藩への造船時の500石制限  江戸時代に入り、幕府は、各藩への造船時の500石制限を行っ…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成

 横内川は、江戸時代に徳川家康が築いた運河である。  駿府城と清水江尻港(現在の清水港)と…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料

関係各機関のホームページ 薩摩土手に関して訪れた方々により、景観を中心に多くの画像などが…

祭門飛鳥
4か月前
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変わり行く薩摩土手 11 薩摩土手の完成と権現様堤の名

 駿府城下町を守るために築かれた薩摩土手は、江戸時代の土木技術や薩摩藩の貢献を示す歴史的な遺構である。しかし、その築造過程や名称の由来には、様々な説が存在する。  特に、薩摩藩が石の運搬だけでなく、築堤まで行ったとする説は、駿府独案内や伝承などに基づくもので、確かな史料は見つかっていない。  薩摩土手の呼び名も100年以上経過してからの言い伝えの文章化の証拠の成否が今も議論の的となっている。  権現様堤という名前は、駿河国一宮の浅間神社に由来すると言われ、古くから駿河の