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変わり行く薩摩土手 6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想)
① 川辺城構想の概要
家康は、駿府城の西にあった川辺町に、海外との交流や防衛の拠点となるスペイン風の城を築こうとした。
![](https://assets.st-note.com/img/1708911136422-lGWJMothcj.png)
太平洋と安倍川を堀でつなぎ、大型船が入れるようにする計画だった。しかし、実現には至らなかった。
![](https://assets.st-note.com/img/1707727606351-WI9KbAldrF.png)
② 建設の難航と断念
家康は、1607年に川辺城の建設を命じたが、海岸線の変化や土地の沈下、資材や人員の不足などで計画は進まなかった。
1611年には、家康は駿府城を改修し、川辺城の計画を諦めた。この地は、1618年に遊郭が開かれ、江戸時代を通じて栄えた。
③ スペイン風という説
家康がスペインに興味を持っていた理由は、ヨーロッパ情勢やキリスト教の影響、金銀の採掘と製錬技術、置き時計などの贈り物などが考えられる。
しかし、スペイン側も日本を植民地化する野心を持っており、家康はその危険性を感じていた。川辺城がどのような点でスペイン風であったかは、資料からは明らかになっていない。
参考
徳川家康の洋時計は、慶長16年(1611年)にスペイン国王フェリペ3世から徳川家康に贈られた洋時計であり、日本現存最古の時計である。家康の死後は久能山東照宮に祀られ、重要文化財に指定された。
2012年(平成24年)に行われた大英博物館の時計部門責任者による調査では、保存状態が良く内部の部品もほぼ当時のまま残っていると評価されている。
![](https://assets.st-note.com/img/1707725477482-769Zw09DiN.jpg)
https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0
薩摩土手
目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流)
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)
4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想)
7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成
10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名
12 誤解されやすい薩摩義士との違い
13 駿河国誌での薩摩土手の名
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手
15 明治の薩摩土手周辺の様子
16 大正の洪水被害と湯浅堤
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手
19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定
21 令和の緑地公園
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