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変わり行く薩摩土手 3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

 藁科川は駿河湾に注ぐ一級河川で、流域面積は約 160平方キロメートルである。

藁科川

 安倍川も駿河湾に注ぐ一級河川で、流域面積は約 300平方キロメートルである。

安倍川

 両河川ともに、古くから地域の人々の暮らしや文化に深く関わってきた。これらを比べたとき、どちらが先に名が出たかと言うと藁科川である。


 藁科川の名は、『日本書紀』に「駿河国の藁科郡」として登場する。
 これは、7世紀のことである。

「日本書紀」に「駿河国の藁科郡」という記述があるのは、古代日本の地方行政区画の一つである。藁科郡は現在の静岡県静岡市葵区。

 一方、安倍川の名は、「駿河国新風土記」に「安倍郡」として登場する。 これは、18世紀のことである。

 つまり、藁科川の名は安倍川の名よりも1,000年以上も古い話である。
 なぜ、藁科川と安倍川の名前の由来にはこんなにも時代の差があるのだろうか。

 それは、藁科川が自然地名であるのに対し、安倍川が人為地名であるからだと考えられる。

 藁科川の名は、河口付近に生えていた「藁草」という植物に由来するという説がある。
 これは、自然環境をそのまま反映した地名である。

 一方、安倍川の名は、この地に居住した阿部(安部)氏に由来するという説が最も有力と考えられている。
 これは、人間の歴史や社会を反映した地名である。

 藁科川と安倍川は、それぞれ異なる時代や背景から生まれた河川名である。

 しかし、両河川ともに、今もなお地域の生活や文化を支えている貴重な水源であることに変わりはない。

 藁科川は、古くから農業用水として利用されてきた河川である。 その名前は、藁を編んで作った堰(せき)が多く設置されていたことに由来すると言われている。

 藁科川の水は、豊かな稲作文化を育んだだけでなく、養蚕や醸造などの産業にも欠かせないものであった。

 また、藁科川沿いには、歴史的な建造物や風景が数多く残されており、地域の歴史や文化を伝えている。

 安倍川は、江戸時代に多くの河川を開削された河川である。
 その名前は、開削に尽力した安倍氏にちなんで付けられたとされている。

 安倍川の水を利用して発展し、農業をはじめとして、地域の経済を支える重要な産業となった。

 また、安倍川沿いには、近代的な建築物や施設が多く建設されており、地域の発展や変化を示している。


 
https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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