見出し画像

変わり行く薩摩土手 10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料

関係各機関のホームページ

薩摩土手に関して訪れた方々により、景観を中心に多くの画像などが掲載されている。
団体等では、鹿児島を中心に学術研究機関等で掲載され、その内容は、次の通りです。 

① 鹿児島県黎明館

鹿児島県黎明館           

慶長10(1605)年,幕府は明年の江戸城修築手伝いを諸大名に命じた。同 年7月薩摩藩には垣石運漕船300艘の御手伝普請が命ぜられた。

薩摩土手

 幕府は金150両を給与。藩は莫大な出費を要し,翌11年正月竣成した。
 300艘の内150艘分の船に積載した石・木材などは,駿河妙見下より弥勒までの堤防築造や駿河城の外郭完成に利用され,安倍川の水害を防いだと伝える。

 この時築かれた堤防は約4キロにも及び,現在薩摩土手と呼ばれている。
https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/josetsu/theme/kinsei/sekigahara/kgs03_s1_1.html

② 鹿児島大学

鹿児島大学                

 静岡は安倍川の扇状地に当たります。今川氏が治めていた時代には、現中心市街地を幾筋も安倍川の分流が流れていました。

鹿児島大学所有

 扇状地ですから伏流水は豊富で、井戸を掘れば必ず水が出ますが、しばしば洪水に見舞われました。

 その今川氏も滅び徳川氏の時代になります。家康は江戸城の大々的な改 築に乗り出します。いわゆる家康の天下普請です。

 1605年(慶長10年)、秀忠が2代将軍になったとき、江戸城石垣普請のため、島津家久に石漕せきそう船300艘の建造を命じ、その費用として黄金150枚(1,500両)を与えます。

 ところが駿府を家康の隠居城として整備するつもりだったのでしょう、予定を変更して半分の150艘を静岡に回送させました。
 
 『靜岡市史』には、次のように記載されています。
 是より先二月島津忠恒(家久)石網船三百艘を造り、五月百五十艘を駿河国江尻に廻漕した。

 是は去年七月幕府が江戸築造の石材木材を運ばん爲に、黄金百五十枚を給して造らしめたもので、實は大きな課役である。

 しかも石幷に材木御用付といえば空船ではなかった。

 それを駿府城築城の爲に半を割かせたものであって、積みきった木石は小船にうつして巴川から北川に運び、石材の大部は安倍川改修に宛てたのであらう。是れ今も其の堤防に薩摩土手の名を冠する所以か。

 また、新庄道雄によって1816年(文化13年)から1834年(天保5年)にかけて編纂された『駿河國新風土記 第六輯 安倍郡上』には、次のように記載されています。

 籠鼻妙見山下より有渡郡中野新田に至るの大堤あり高三間敷拾貳間馬踏六間長貳千四百余間と駿府舊圖にみえたり この堤は慶長年中安倍川の水流今の所に流され爲に築く所なりと云川表の方方面三四尺の石を積て駿府の城市の圍とす其石㊉を刻めるありて島津家の功役にて築く所なりと云傳ふ

 駿河國新風土記によれば、薩摩藩が堤防普請をしたようにも読み取れますが、歴史作家桐野作人は、堤防普請をしたというよりも、石材を運んできたことにちなむようである、としています。

 静岡側にも鹿児島側にも堤防普請の詳しい記録はありません。

 なお、丸に十字の家紋の付いた石は駿府城では発見されていますが、薩摩土手ではまだ見つかっていません。

--------------------------------

鹿児島大学の掲載はここまでですが、参考までに、現代文に掲載させていただきました。

靜岡市史
 二月になると、島津忠恒(家久)は石網船という船を三百隻作りました。五月にはそのうち百五十隻を駿河国の江尻まで漕いでいきました。

 この船は、前年の七月に幕府が江戸の築城に使う石や木を運ぶために、黄金百五十枚を出して作らせたものです。実はとても重い仕事でした。

 しかも、石や木を運ぶと言っても、空の船ではありませんでした。駿府城の築城に半分を取られたのです。積んであった石や木は小船に移して巴川から北川に運びました。石のほとんどは安倍川の改修工事に使われたのでしょう。今でもその堤防には薩摩土手という名前がついています。それが由来です。

駿河國新風土記
駿河湾に注ぐ安倍川の下流には、籠鼻妙見山から有渡郡中野新田までの間に大きな堤防があります。

この堤防は、駿府の古い地図にも高さ三間、幅十二間、馬の通れる道が六間、長さは二千四百余間と記されています。

この堤防は、慶長年中に安倍川の水が今の場所に流れるようになったために築かれたものです。

堤防の川側には、高さ三四尺の石が積まれており、駿府城や市街を囲む役割もしていました。

その石の一部には刻印があり、島津家の人々が築いたという伝説があります。

注)籠鼻妙見山の「籠鼻(かごのはな)」とは、賎機山(浅間神社等がある)の安倍川の流れが大雨の時、その裾をさらったため、これを防ぐために多くの蛇篭が置かれた。

そのことから、そのすぐ北側の突き出たところを籠鼻と呼んだ。鼻とは、海でいう岬で、陸地のもの鼻と呼んだ。

ここに今川時代、甲州武田の見張り場として、籠鼻砦が作られていたが、現存はしていない。

この籠鼻の上(北側)を「籠上」と呼び、薩摩土手の所在する現在の町名でもある。

③ 南日本新聞社

南日本新聞社                

「さつま人国誌」は、新聞掲載後、冊子として発行された。

https://www.373kc.jp/category/news/info-book/book-history/

そのうちの一つとして、「島津家が石材運んだ堤」と題して、薩摩土手のことが掲載された。

 徳川家康の晩年の居城となった駿府城の北西、安倍川左岸に「薩摩土手」と呼ばれる小高い堤防跡が残っている。
 私が訪れたのは今年3月末、桜の季節だった。堤防下に「薩摩土手之碑」と彫られた立派な石碑があった。

で、始まっている。


https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?