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変わり行く薩摩土手 8 各藩への造船時の500石制限

8 各藩への造船時の500石制限

 江戸時代に入り、幕府は、各藩への造船時の500石制限を行った。 
 石運搬船とは、石の海上運搬に就役された船で、「石船」とか「石綱船」とも呼ばれていた。

 石運搬船は、江戸時代に日本各地で築城や港湾整備などに用いられた。
 その中でも、薩摩藩の石運搬船は、特に注目に値する。

 薩摩藩の石運搬船は、幕府の造船禁令によって大型船を失わなかったからである。

 薩摩藩は、江戸城や駿府城の築城に協力し、伊豆半島から石を運んだが、その船は、500石以下の小型船であった。

 そのため、幕府は薩摩藩の船を没収しなかったのである。
 しかし、その小型船は、後に、琉球貿易において大きな役割を果たしたと言われている。

 薩摩藩は、1609年に琉球王国を侵攻し、以後、琉球貿易の独占権を得た。
 琉球貿易では、中国や東南アジアからの高価な商品を日本に持ち込み、日本の銀や銅などを売り出した。

 この貿易で薩摩藩は、多くの利益を得たが、その際に使われた船は石運搬船であった。

 石運搬船は、小型であるが、堅牢で積載量が多く、海上での操船も容易であった。

 そのため、沿岸近くを行く従来和船より、琉球貿易に適した船で、築堤、築城等の運搬に貢献しただけでなく、琉球貿易においても重要な役割を果たしたと推測される。

安宅丸 あたけまる

 徳川家の「安宅丸」は、江戸時代に建造された大型の軍艦である。この船は、上口長156尺5寸(47.4メートル)、竜骨長125尺(37.9メートル)、横幅53尺6寸(16.2メートル)、深さ11尺(3.3メートル)という巨大なサイズで、満載排水量は推定で約1700トンにも達したという。

これは、当時の日本の船としては最大級のものであり、石数に換算すると約1万石相当の船であった。

 安宅丸は、徳川家康が関ヶ原の戦いに備えて作らせた船の一つで、西軍の水軍を牽制するために使用された。

 安宅丸は、その後も徳川家の所有となり、幕府の海上警備や外交使節の送迎などに活躍した。

 安宅丸は、日本の近世海事史において重要な役割を果たした船であると言えるだろう。


https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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