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変わり行く薩摩土手 1 これまでの薩摩土手の様子

薩摩土手を貫通する御用水道の井宮水門から駿府城

薩摩土手の歴史については、様々な見解があることは事実である。
一つには、薩摩土手は、江戸時代に薩摩藩が駿府城下に築いた堤防であるという説がある。

二つには、それ以前に今川氏が駿府館の防御のために築いた堤防で、その堤防を改修したという説などが挙げられる。

これらの説は、それぞれに根拠や若干の証拠を持っているが、決定的なものはなく、議論が続いている。

薩摩土手の歴史を探ることは、駿府の歴史や文化を理解する上で重要なことであると言えるだろう。

史実と異なるものも含まれているのではないかと疑問に思うことも多々ある。

薩摩土手に関する資料を集めて、自分なりに調べ、薩摩土手の歴史を見る上で新しい視点を提供することとした。

3つの疑問とその考察を示す。

① 薩摩土手を築いたのは誰か。
 地元の言い伝えでは、薩摩藩が築堤したとされるが、石の運搬だけを行ったという説もある。

しかし、石を敷設することは、堤防の基礎を作ることであり、それは築堤作業の重要な部分である。

覆土することは、その上に土を盛ることであり、それは築堤作業の仕上げである。

石を運んだだけではなく、堤防を作ったと言っても過言ではない。
また、この場所には、今川氏を滅ぼした武田氏の土手の遺構が残っているという推定もある。

薩摩土手は1607年に完成したというよりは、それ以前にも存在していた可能性が高いと考えられる説がある。ボーリング調査で解決できるという。

② 薩摩土手は、新築かそれとも旧堤の補強か
いろいろな資料を調べたが、具体的なことはわからなかった。
薩摩土手は江戸時代から現代まで続く貴重な文化遺産である。

その築堤過程や役割を正しく理解することは、日本の水利史や土木史において重要な意義を持つと言われ、土木学会でも認定されている。

工法や技術を分析するためには、実際に現地を調査したり、当時の文献や図面を探したりする必要がある。
薩摩土手の補強方法や規模については、今後の研究課題である。

③ 六部さんの命懸けて防いだ言い伝えは、どういう事情で起きたのか

 鎌倉時代に土手が豪雨で決壊しようとしたときに、六部さんが命を懸けて防いだという伝説がある。

これはどういう事情で起きたのだろうか。その時代にも土手があったということは、藁科川と安倍川が合流していたということなのだろうか。

それとも、別の場所で決壊した土手があったのだろうか。そもそも当時の土手は今のようにつながってはいなかった。

この言い伝えは、単に民話ではなく、当時の水害や治水事業に関する貴重な情報源である可能性がある。

六部さんは、各地を巡回した六十六部という修行僧の総称であり、各地でいろいろな言い伝えがある。全国には、とてつもなく怖い話がある。

どんな人物だったのか、どんな活動をしていたかなども興味深いテーマである。

このように、薩摩土手の歴史に関する疑問は、多くの人が抱いていている。薩摩土手は、静岡市の歴史や文化に深く関わっている貴重な遺産である。

その真実を明らかにすることは、近くに住む私たちにとって大切なことの一つでもある。これからも薩摩土手の歴史を探求していきたいと思っている。

参考
修行僧六十六部さんとは、仏教の伝統において、六十六の部派に分かれた修行僧の総称である。

部派とは、仏教の教義や戒律に関する解釈や実践の違いによって生じた学派や宗派のことである。

修行僧六十六部さんは、仏陀の入滅後に始まった仏教の分裂の歴史を反映しており、各部派はそれぞれに独自の経典や教理を持っていた。

修行僧六十六部さんは、インドや中央アジア、中国、日本などに広がり、仏教の多様性と発展に寄与した。

鎌倉時代などにインドなどで修行する僧六十六部は、なぜ日本にいるのかは、いくつかの考え方がある。

一つには、彼らが仏教の教えを広めるために来日したということです。
当時の日本では、鎌倉幕府が成立し、武士や庶民にも仏教が広まりました。

仏教は、その起源から貴族や寺院の特権として扱われ、その教えは、一般の人々には理解しにくく、関係しにくいものでした。

高度な哲学や宗教的な儀式によって、社会の上層階級にのみ開かれた仏の道でした。

時代が変わるにつれて、仏教も変化しました。一般の人々にも仏教の教えを広めるために、新しい宗派や運動が生まれました。

これらの仏教は、より身近で分かりやすいものでした。

人々は、自分の日常生活や苦しみに対して、仏教の教えを参考にすることができました。
仏教は、貴族や寺院から一般の人々へと広がっていったのです。

六十六部さんたちは、インドや中国で学んだ仏教の真髄を伝えるために、日本語で説法をしたり、簡潔でわかりやすい教えを書いたりしました。

この仏教を日本の文化や社会に適応させることで、多くの人々に受け入れられるように努めました。

もう一つは、彼らが修行を完成させるために来日したということ。
インドや中国では、仏教は高度に発展しており、多くの経典や宗派がありました。

それゆえに、仏教の本質が見失われていると感じる六十六部もいました。
仏教の根源である釈迦の言葉や行いに立ち返ることが必要だと考えました。そこで、彼らは、日本にある釈迦の遺骨や遺物を拝むために帰国しました。

また、彼らは、日本の自然や風土に触れることで、仏教の普遍性や深遠さを感じることができました。

以上のように、鎌倉時代にインドなどで修行する僧六十六部さんは、なぜ日本にいるのかという問いには、様々な視点から捉えることができます。

仏教を日本に根付かせることや自分たちの悟りを深めることを目指しており、日本仏教の発展や多様化に大きな影響を与えたという考え方もあります。


https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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