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変わり行く薩摩土手 11 薩摩土手の完成と権現様堤の名

 駿府城下町を守るために築かれた薩摩土手は、江戸時代の土木技術や薩摩藩の貢献を示す歴史的な遺構である。しかし、その築造過程や名称の由来には、様々な説が存在する。

薩摩土手近辺

 特に、薩摩藩が石の運搬だけでなく、築堤まで行ったとする説は、駿府独案内や伝承などに基づくもので、確かな史料は見つかっていない。

 薩摩土手の呼び名も100年以上経過してからの言い伝えの文章化の証拠の成否が今も議論の的となっている。

 権現様堤という名前は、駿河国一宮の浅間神社に由来すると言われ、古くから駿河の国の守り神として崇敬されてきた。

 江戸時代には、徳川家康が浅間神社を篤く信仰し、安倍川の氾濫を防ぐために薩摩土手を築いたとされる。 

 この土手は、浅間神社のご神徳によって守られていると考えられ、権現様堤と呼ばれるようになった。

 安西堤(逆八の字の信玄堤作り)という名前は、土手により作られた土地が安西新田という地名になったことによるものである。

 薩摩緑地という名前は、昭和時代後半に公園として整備されたことによるものである。

 駿府御囲堤という名前は、幕府が駿府城を囲むように命じたことによるという。これらの呼び名は、土手の歴史や役割を表すものである。

 その薩摩土手は、昭和の時代に修築され、御用水道の一部である井宮水門(町民が使う大水道と別設)が現れた。その中には石造りの水路が仕込まれていた。

 この水路は、薩摩土手の中から発見されたもので、当時の高度な技術を伝えていて、現在、埋め戻して保存されている。


 この井宮水門は、駿府史に残る貴重な歴史遺産である。ここに一番近いお宅の御厚意で説明板が設置されている。

井宮水門壁新聞
井宮水門壁新聞

https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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