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変わり行く薩摩土手 2 安倍川の流れの変更
薩摩土手は、江戸時代に薩摩藩が静岡市北部の河川改修工事を行った際に築かれた堤防である。
![](https://assets.st-note.com/img/1707571799335-esFDLubzxy.jpg)
薩摩土手のできる前は、上の図のように、安倍川と呼ばれる川は存在せず、賎機山沿いに流れる川が平地を蛇行しながら海に注いでいた。
この川は、しばしば氾濫を起こし、周辺の農地や住民に被害をもたらした。このため、駿府の街の発展は、大きく遅れていた。
薩摩土手のできた後は、下の図のように、安倍川と呼ばれるようになり、流れは西に移動し、藁科川と合流して一本の大きな川となった。
![](https://assets.st-note.com/img/1707571854657-kygdPP9dAv.jpg)
これにより、堤防によって水量や流れが制御され、氾濫の危険が減った。また、静岡市の水運や水利に大きく貢献し、現在も静岡市北部の景観を形作っており、歴史的な価値が高く評価されている。
薩摩土手は、堤防沿に桜の木が植えられている。この桜は、60年ほど前に薩摩土手南側に隣接する井宮町子供会が植えたものである。
春には、満開の桜と青空が美しいコントラストを作り出し、多くの人々が訪れる。
堤に桜が植えられたのは、岡崎城時代の家康の考えでした。
城下町の景観を美しくするだけでなく、花見の人たちが歩くことによって堤を固めるという土木工学的な効果も狙っていました。
これは、桜の木を植えるというシンプルな方法で、土木工学の基本的な知識を示しています。
その桜は、江戸時代には「徳川桜」と呼ばれ、岡崎の名物となりました。
現在も、岡崎公園や乙川沿いには、家康の桜の子孫とされる古木が残っています。
https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0
薩摩土手
目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流)
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)
4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想)
7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成
10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名
12 誤解されやすい薩摩義士との違い
13 駿河国誌での薩摩土手の名
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手
15 明治の薩摩土手周辺の様子
16 大正の洪水被害と湯浅堤
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手
19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定
21 令和の緑地公園
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