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変わり行く薩摩土手 4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用

 安倍川薩摩土手は、雁行堤方式を採用している。
 雁行堤とは、河川の中央に小さな堤を作り、両岸の大きな堤と連結することで洪水を防ぐ方法である。

 安倍川には、薩摩土手から北へと七堤の雁行堤が設置されている。
 安倍川流域には、江戸時代から明治時代にかけて新田開発が盛んに行われた。

 新田とは、河川や海岸などの水辺に土地を造成して耕作することである。安倍川両サイドには、20を超える堤が築かれ、同数以上の新田が開拓された。これらの新田の名称は、開発者や地名などに由来している。

安倍川下流部では、特に藁科川と合流する付近に新田が集中している。
 この地域は、水量が多く、水質も良いため、農業に適していたと考えられる。
 安倍川周辺の新田は、静岡市の歴史や文化に大きな影響を与えた。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/783991/

 武田信玄公は、甲斐国(現在の山梨県)を中心に、信濃国(現在の長野県)や駿河国(現在の静岡県)にも及ぶ治水工事に取り組んだ。

 その中で、雁行堤と呼ばれる独特の堤防を多くの河川に設置した。
 雁行堤は、川の中央に石を積んで流れを二つに分けることで、水量を調整し、氾濫を防ぐ効果があった。

 また、川の流れが遅くなり、武田軍は川を渡りやすくなったという。雁行堤は、武田信玄公の治水事業と軍事戦略の両面で重要な役割を果たした。

 武田信玄公は、自ら現場に赴いて指揮を執り、工事に従事した人々には食料や賞金を支給した。

 これは、信玄公の領民に対する恩恵としても認識された。
 さらに、堰(せき)や疏水(そすい)と呼ばれる水路を作り、農業用水を確保した。

 これらの工事は、敵軍の侵入を阻む防御施設としても機能した。信玄公の治水工事は、政治的・軍事的な戦略とも密接に関係していた。

 信玄公の死後も、その子孫や家臣たちは、治水工事を継続し、発展させた。

信玄公の治水工事は、日本の近世土木史において重要な位置を占めるとともに、現代においてもその効果が残っている。
 
 雁行堤は、現在でも山梨県の多くの河川に残っており、歴史的な遺産として保存されている。

山梨市では、これらの堤防を観光や教育にも活用しており、山梨市の公式ホームページで詳しく紹介している。

https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/city_59.html


https://note.com/saimonasuka/m/mc2f23d7073c0

薩摩土手

目 次
1 これまでの薩摩土手の様子
2 安倍川の流れの変更(西への移動による藁科川との合流) 
3 藁科川と安倍川の関わり(平安時代からの藁科川)

4 武田家(駿府制覇の時代)の雁行の信玄堤方式の採用 
5 駿府城の築城計画(焼失の繰り返しによる再建築)  
6 家康の築城計画(スペイン風の幻の川辺城構想) 

7 家康から秀忠への石槽船 150艘の流用指示 
8 各藩への造船時の500石制限
9 北川と駿府城を結ぶ横内運河の計画と完成 

10 薩摩土手関連の各機関の掲載資料
11 薩摩土手の完成と権現様堤の名 
12 誤解されやすい薩摩義士との違い 

13 駿河国誌での薩摩土手の名 
14 安倍紀行、駿河國新風土記と薩摩土手 
15 明治の薩摩土手周辺の様子

16 大正の洪水被害と湯浅堤 
17 大正の薩摩土手を横切る安倍鉄道 
18 昭和の都市計画道路、緑地公園そして自転車道へと変貌する薩摩土手 

19 平成の薩摩土手の碑建立
20 平成の土木学会による土木遺産の認定 
21 令和の緑地公園


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