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『ART SCIENCE IS. アートサイエンスが導く世界の変容』 から感じ取れること、備忘録。

#先日の余談

ずいぶん前、代官山にてふらっと入ったお店「ART&SCIENCE」の話ではない♪(少し前に京都にもお店できたけどね)


先日MTRL KYOTOで行われた出版記念と銘を打って行われたトークイベント『アートサイエンスで考える、死とか愛とか社会とか』に行ってきた。

死とか愛とか社会とか... までの着地には至らなかった気がする。そもそも僕にとってそれらの言葉は曖昧で掴みどころのない印象だったけど、イベントを経てさらにボヤけた気もする。手掛かりがあればと思って、帰りに美術館や映画を観た後でカタログやパンフレットを買うように書籍を購入してみた。

大阪芸術大学の新しい学科のプロモーションの一貫だろうかな?っと、斜に構えて読み進めている。「アートサイエンス」という言葉はボヤけたままだけど、現時点での「まとめ図録」としては良い加減の着地ではなかろうか。

プロモーションはスマートで、先行して「bound baw」というメディアを立ち上げられている。今回の書籍はその集大成という関係のようだ。アートサイエンスなんて言葉を使わずに「メディア・アート」でいいんじゃないかと読み進めていると、少し馴染んできたわ♪


アートと、サイエンス

僕が科学(サイエンス)に出会ったのは、子供のころ(ずいぶん昔の話)、小学生向け学習雑誌として、学研が出版していた「科学」と「学習」というのがあった。当時、理由を問わなかったが、自分の家では購入しておらず、親戚の家に行った時に読み伏せっていた。特に「科学」の付録に魅了されていた気がする。さまざまな付録を通して見える新しい世界にワクワクしていた。

それから10年ほど経って、美大受験としてデッサンを学んでいた。卓上にあるモチーフが紙の中に鉛筆と紙の濃淡だけで再現されていくんだけど、それは一体何なのか? と疑問を持ちながら描く作業に没頭していた。

観察力と表現力を磨くのはわかるんだど、目の前にあるモチーフやその空間の何を捉えているんだろうか。例えば、白菜の瑞々しさや鍋に入れた時の美味しいだろうと連想されるのは何だろう。

知覚:人の感覚(senses)基幹を通して、如何に語りかけるか。。。

美大に入って数年が過ぎたころ、コンセプチャルアートという言葉がアートシーンにもあって、当時のアートは目の前にある媒体に作者の意図がすべてあることもなく、難解で、直感的に理解できるもので無くなっていた気がする。そんな環境もあって、僕の存在を確認する手段として数枚の紙に僕に関わる人の名前をすべて鉛筆で書き出して発表したこともあった。(今思うと僕のソーシャルグラフだ。淡い♪)

そもそも、アートとか、サイエンスとか、理系とか、文系とか、そういう分類が邪魔しているんじゃないのって話もあるが(イベントの冒頭で「何処に属するのか」と質問があったが、僕は「その他」で手を上げた♪)、多くの人は凡人で、ものごとを整理して捉えていって本質に近づくにはそういうの大事。

ネリ・オックスマン(Neri Oxman)のエコシステム図はわかりやすい。


イベントの質疑応答の中で『アートとしてのアウトリーチにサイエンスを用いたものがあるが、その逆、サイエンスとしてのアウトリーチにアートを用いるものは有るのか?』というような質問があって、イベントの中ではぼやっとした印象のままで終わってしまった。

シンプルにとらえると「目的」と「手段」の話かな。例えば、美術大学のアートサイエンス学科のように美術大学主体ならアートとして表現したいとなるだろうし、理系の学部にアートや表現学科があればサイエンスとして表現したいとなる気がする。修了作品と論文という手段ありきだからだろうか。

コンセプトが軸にあるならアートもサイエンスに限らず、全てその表層になんだろうか。作品や論文は手段というか、結果もしくは通過点なんだろうね。

例えば、映画『インターステラー』(Interstellar)から感じ取れるのは「映画」という手段を用いて「サイエンス」の魅力が抉り出されている。(振り返るといろいろある、手塚治虫もそういう視界があるマンガ家だよね)


死とか愛とか社会とか.... って曖昧なままで、もがいているままの方がいい気がしている。根源とか哲学とか理とか、人の生き死にといかに向き合うか。

書籍には答えはないし。実際に前に進むことに価値があるんだな。


補足

ナム・ジュン・パイクの作品はCRT(ブラウン管)を使っていることもあって、機械の寿命とともに作品が停止しているのだ。

同じような状況として、昨年、僕も磁性流体を扱う作家の展覧会に携わったんだけど、これも磁性をコントロールする装置(プログラムされた端末)には機械としての寿命があった。メディア・アートにはメンテナンスという側面がファインアートよりも重要なんだわ♪(これは如何なものかと今でも思っている...)

尚、ちらりと「マクルーハン」という言葉が出てきた。メディアの行く末の一文程度だった。(浅田彰さんの寄稿がウェブに上がったので備忘録としてリンクを残しておく)

#アート #サイエンス #科学 #備忘録 #メディアアート #目的 #手段

僕のnoteは自分自身の備忘録としての側面が強いですが、もしも誰かの役にたって、そのアクションの一つとしてサポートがあるなら、ただただ感謝です。