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ひとつの詩と三度出会う。(谷川俊太郎『みみをすます』)

谷川俊太郎「みみをすます」と初めて出会ったのは、私がほんの子どもだった頃、身内の誰かから買い与えられたものらしい、福音館書店の書籍『みみをすます』でした。
谷川俊太郎『みみをすます』
福音館書店


山吹色というのでしょうか、その表紙に描かれた柳生弦一郎イラストの「顔」は、シンプルですが子ども心に強烈なインパクトでした。
「みみをすます」は全てひらがなで書かれているので、幼い私にその意味が分からなかったとしても、何度も何度も読んだことは覚えています。
でも、それきり忘れたのです。

二度目に「みみをすます」と出会ったのは2014年、色々美術研究所が地元で企画してくれた、舞踏家で山海塾メンバー岩下徹さんの公演でした。
岩下徹ダンス公演「即興-少しずつ自由になるために みみをすます-谷川俊太郎同名詩集より」2014年11/1 秋田市、たまご公園にて

この時点で私はもう、この詩をなんとなくしか覚えていませんでした。でも詩の内容よりも、屋外環境や観客に溶け込みながら躰を動かし続ける岩下さんに、四方八方からしきりに光線のようなものが当たって、それを手のひらで熱心に受け止めている、そんなものが見えるようでうっとりしたのでした。

ならばこの光線は何だろう、声なのだろう。些細で、誰も気に留めないかもしれないが、確かに飛び交っている、無数の、何処かの誰かの声なのだろう。それらを今、一身に受け止めている人……

岩下徹さんのダンスを堪能しながら、そんなことを思いました。
そして、やっぱりそのまま「みみをすます」のことを忘れたのです。

三度目は、つい三日前です。

「もう読んだから、あげるけど。これいる?」と母が私に見せたのは、谷川俊太郎『いつかどこかで 子どもの詩ベスト147』。

谷川俊太郎『いつかどこかで 子どもの詩ベスト147』集英社文庫2021年

子どもの詩かぁ、と投げやりになりかけて、ハッと思い直しました。目次を確かめると……ありました、「みみをすます」。

みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます
……

完全ひらがな、和語の詩は、声に出して読めば、一語一語がおっとりと着実に、目に耳に、染み込んでくるようです。近くの誰かや遠くの誰かの、過去の記憶、今の営み、生きる激しさと、なんでもなさ、戦う苦しみ、愛する喜び、私やあなたの、未来の営み、ふつうの毎日……

無限に拡がる、あらゆるそれらの声が、私の目と耳に飛び込んでくるようです。
読むうちに、体中の細胞が微細に振動を始めるような気がしてきて、もう忘れていた詩の内容は、意味として忘れてはいても、身体に染み込んだ何かが、ちゃんとあったのだと気がつきました。

次第に、この並んだひらがなは、言葉としての意味も崩れていき、言葉としてのかたまりがバラバラになり、「あした」という文字が、「あ」は単に純粋な「あ」でしかなくなり、「し」は純粋に「し」でしかなくなり、「た」は純粋な「た」でしかなくなり、

そうして唯々、純粋で純粋な音が、空に流れていくようです。

それで、それを、きっと誰かが手のひらで受け止めるのでしょう。あの日見た岩下さんのように。

祈り、とはこういう行為なのかもしれません。
世界に放たれた純粋で純粋な言葉があって、純粋に純粋に耳を澄まして受け止める人がいる。それは映画のようなドラマチックで官能的な奇跡ではないかもしれませんが、純粋な能動と受動とは、何処かで必ずぴったりと交わるのでしょう。

私は幼い自分が純粋に放った「みみをすます」の言葉を、今、自分の手のひらで受け止めたのかもしれません。

世界では日々目まぐるしいまでの出来事が起こり、一人ひとりの人生のドラマも果てしなく続くのですが、いずれにしても、自らが放ったことの全ては、やがて自分の手のひらの上に注がれる。

唯々、それだけのことなのかもしれません。

今回、本の目次を見て初めて知ったのですが、「みみをすます」は1982年に生まれた詩だそうです。私は1978年生まれ、当時4歳ですから、熱心に愛読していた頃はこの詩もまだ、うんと若かったのですね。


Toru Iwashita



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