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聖書愛読、J.S.Bach愛聴 Independent Christian, Seek…

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聖書愛読、J.S.Bach愛聴 Independent Christian, Seeker。晴耕雨読聴奏の日々。 医博 Ph. D. (Biochemistry)、 5人の孫のジィジ。 フラウト・トラヴェルソ超初心者。Instagram.com/saffronshainsta

最近の記事

共に家を建てる

共に家を建てる συνοικοδομέω(シュノイコドメオー) エフェソの信徒への手紙2章21-22節 今お世話になっている教会の 「2024年度 年間聖句」 に選ばれたのが、 この『エペソ人の手紙』2章21〜22節。 『新改訳2017』を使っているので、 開くと、こうある。 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 (新改訳20

    • 主イエスの容姿は?

      主イエスの容姿は? 主イエスはどんな容姿だったのか? ご存知のように、 福音書は 主の言行などを記したものあるから、 どこかに その容姿に触れてるはず、 と思って読んでみても、 実はどこにもない。 何か示唆するような記述すらない。 なぜ、そうなのかと言えば、 色々理由は考えられるけど、 一つには、やはり 十戒の第二戒かな? 神を、 形あるものとして、 目に目えるものとして、 表現してはならない、 というもの。 これはユダヤ民族には徹底していた。 ヘブライ語聖書

      • ヨハネ福音書を学び直す

        コロナ禍以降、多くの教会で礼拝の配信が行われている。 ありがたいことだ。 日本基督教団所属の教会の配信もいくつか拝見しているが、 多くが指定された聖書の箇所に基づいて説教がなされている。 今年は、 『ヨハネによる福音書』のようだ。 ある教会で、 牧師先生が 最新のヨハネ福音書研究を反映させたお話をされた。 それによると、 この福音書は複数の著者が関与しているようだ。 中には、相反する主張も見られたり、明らかに後代の追記もあるとのこと。 それで、この箇所は、追記だから

        • ἀπολύτρωσις(アポリュトローシス)身請け、解放

          2023年11月23日 木曜日 『ローズンゲン』 『日々の聖句』 旧約 詩編 69:6 神よなんぢはわが愚なるをしりたまふ わがもろもろの罪はなんぢにかくれざるなり (文語訳、5節) 神よ、あなたはわが愚行をご存じです。 わが罪過はあなたには隠しおけません。 (月本訳) 『日々の聖句』 新約 エフェソ 1:7 我らは彼にありて恩惠の富に隨ひ、その血に頼りて贖罪、すなはち罪の赦を得たり。 (文語訳) 私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得て

        共に家を建てる

          2レプトン銅貨の献げ物(マルコ伝12章42節)

          2024年1月2日『ローズンゲン』 『日々の聖句』 旧約 詩編 54:8 我よろこびて祭物をなんぢに献ん ヱホバよ我なんぢの名(みな)にむかひて感謝せん こは宜しきことなればなり (文語訳、6節) 私は進んであなたに供犠を献げ、 ヤハウェよ、あなたの名を讃えます。ーー まことに善き〔名を〕。 (岩波訳) 私は進んであなたに供犠を献げましょう。 ヤハウェよ、あなたのみ名を讃えましょう。 それは恵み深くあるがゆえに。 (月本訳) ミルトスの対訳によると、 「自由な意志

          2レプトン銅貨の献げ物(マルコ伝12章42節)

          クーミ オーリ イザヤ書60章1節

          『ローズンゲン』 『日々の聖句』 2024年1月4日 木曜日 『日々の聖句』 旧約 イザヤ 60章3節 もろもろの國はなんぢの光にゆき もろもろの王はてり出(いづ)るなんぢが光輝(かがやき)にゆかん (文語訳) 諸国民はお前の光にひかれ、 王たちは燦然たるお前の輝きに馳せ参ずる。 (中澤訳) ギリシャ語70人訳 【原文】 καὶ πορεύσονται βασιλεῖς τῷ φωτί σου καὶ ἔθνη τῇ λαμπρότητί σου. 【発音と逐語

          クーミ オーリ イザヤ書60章1節

          フィリピのリディア

          『日々の聖句』 2024年1月5日 金曜日 新約 使徒言行録 16:15 彼は己も家族もバプテスマを受けてのち、我らに勸めて言ふ『なんぢら我を主の信者なりとせば、我が家に來りて留れ』斯く強ひて我らを留めたり。 (文語訳) 彼女とその家の者たちが洗礼を受けた時、彼女は呼びかけて言った。「もし私が主に対して信実な者であると思って下さるのでしたら、どうぞ私の家にいらっしゃって、滞在なさって下さい」。そして彼女は我々を強いて(招じ入れた)。 (田川訳) ὡς δὲ ἐβαπτ

          フィリピのリディア

          『ローズンゲン』(日々の聖句)書写

          2024年1月1日 月曜日 今年も、 『ローズンゲン』(『日々の聖句』)の書写を心してやろう。 『日々の聖句』 旧約 イザヤ 7:4 これに告べし なんぢ 謹みて靜かなれ (文語訳) そして彼に言いなさい、『心して、平穏であれ。恐れてはならないし、また心を弱くしてはならない。 (岩波訳) 『くれぐれも軽挙妄動を避けよ。恐れることはない。 (中澤訳) 意味としては、中澤訳がピッタリだけど、やはりここはヘブライ語のキーワード「シャーカット」(静か、穏やか」を上手く残し

          『ローズンゲン』(日々の聖句)書写

          詩編131編「乳離れした幼子」

          詩編131編の「乳離れした幼子」に思う 詩編131編は、好きな詩だ。 以前、『母の胸にいる幼子のように』と題した文を書いた。 (拙著『平和は大河のように』204ページ) 孫の安らぐ姿を見ていたら、 ふと、この詩編を思い出し、 改めて読んでみた。 主よ、私の心は驕っていません。 私の目は高ぶっていません。 私の及ばない大いなること 奇しき業に関わることはしません。 私は魂をなだめ、静めました。 母の傍にいる乳離れした幼子のように。 私の魂は母の傍の乳離れした幼子のようです

          詩編131編「乳離れした幼子」

          的外れ

          今日は聖パウロの回心の記念日だそうだ。 回心前、人一倍熱心なユダヤ教徒だったパウロ(当時はユダヤ名のサウルと名乗っていた)が、キリスト者たちを捕らえるためダマスコへの道を急ぐ途上、突然天からの光を受け、目が見えなくなった。 ミケランジェロの絵は、まさにその瞬間を描いたものだ。 それは復活された主イエスの啓示。 「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」 主イエスからの呼びかけ。 自分こそ、神のために誰よりも熱心と自負していたサウル。 その神のため、神を冒涜するキリ

          宗教改革記念日に思う。

          宗教改革記念日。 宗教改革の果たした歴史的重要性は、特に基本的人権の普及など、キリスト教に無縁な世界にも無視できない歴史の流れの源流であり、その動きのエネルギー源であるから、どれだけ高く評価しても仕切れないと思う。 しかし、その一方で、抜き差しならぬ対立を生み、それは時に数十年に渡る戦争ともなってしまったのも歴史的事実である。 それは、今日、なお、人類が直面する問題でもある。 それ故に、その根源的解決を願い、「宗教的寛容」のために、文字通り人生をかけて声を上げた二人の先達

          宗教改革記念日に思う。

          今日一日のパンを

          伴侶さんが、硬いパン、バゲットを焼いてくれた。 硬いパンは好物なので早速、マーガリンをつけて、美味しく頂いた。 ふと、パンを見ていたら、「主の祈り」の一節を思い浮かべた。 「日ごとの糧を今日も与えたまえ」 これは、新約聖書のマタイの6章11節とルカの11章3節にある。 マタイ6:11では、 「私たちに日ごとの糧を今日お与え下さい。」 原語では、 τὸν ἄρτον ἡμῶν トン   アルトン   ヘーモーン

          今日一日のパンを

          必要なことは一つだけである

          必要なことは一つだけである ルカによる福音書10章42節にこんな言葉があります。 ἑνὸς δέ ἐστιν χρεία· (エノス デ エスティン クレイア) 「必要なことは一つだけである」(協会共同訳)。 文語訳では、「無くてならぬものは多からず」です。 まさに、「不要不急」とは、この「なくてならぬもの」を問われているのではないでしょうか? 間違った選択はそのまま自他の死に直結するからこそ、その選択の判断基準を問われているのです。 この言葉に関連してですが

          必要なことは一つだけである

          「神を恐れる」と「神に従う」

          「神を畏れる」と「神に従う」 今日(2021年9月3日)のローズンゲン 旧約聖書 出エジプト記 1章17節 助産婦たちは神を畏れていたので、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子たちを生かしておいた。 新約聖書 使徒言行録 5章29節 πειθαρχεῖν δεῖ θεῷ μᾶλλον ἢ ἀνθρώποις. (ペイサルケオー デイ セオー マロン へー アンソローポイス) 人に従うより、神に従うべきです。(聖書協会共同訳) 人間に従うよりも、神に従わな

          「神を恐れる」と「神に従う」

          「ネコと和解せよ」

          「ネコと和解せよ」 ネットで以前、話題になった写真がこれ。 「神と和解せよ」と書かれた看板の、 「神」の漢字の一部が消えて、「ネコ」となり、 「ネコと和解せよ」と読めたということから、 話が広がって、、というもの。 この聖句は、『コリントの信徒への手紙 II 』の5章20節にある。 「神の和解を受け入れなさい」 (聖書協会共同訳) 「神と和解させていただきなさい」(新共同訳) 「神の和解を受けなさい」 (口語訳) 「神と和解させていただきなさい」(新改訳2017) 「汝

          「ネコと和解せよ」

          救いへの自制(Iコリント9:24以下)

          救いへの自制 24あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。25競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。26だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。27むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になっ

          救いへの自制(Iコリント9:24以下)