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主イエスの容姿は?


主イエスの容姿は?

主イエスはどんな容姿だったのか?

ご存知のように、
福音書は
主の言行などを記したものあるから、
どこかに
その容姿に触れてるはず、
と思って読んでみても、
実はどこにもない。

何か示唆するような記述すらない。

なぜ、そうなのかと言えば、
色々理由は考えられるけど、

一つには、やはり
十戒の第二戒かな?

神を、
形あるものとして、
目に目えるものとして、
表現してはならない、
というもの。

これはユダヤ民族には徹底していた。

ヘブライ語聖書にもそれは一貫している。

神は人間の能力で認識できない、
いや、すべきではない。

その「畏れ」が何よりも肝要。

イメージは、定着し、固着する。
それが偶像化だ。

人の手によるイメージは、
〈神〉を地に引き下ろすことだ。

だから、
聖なる存在を、
イメージとして
固定してはならないのだ。
いや、
本来ならできない、
不可能なことなのだ。

では、
主イエスを描いた絵画や映画などは、
どうだろうか?



芸術的価値や
娯楽的要素は別の問題として、どれも想像の域を出ない。

聖骸布から推測された画像もある。

最近は、化学的な分析やAIによる推測などもあるが、
どれもあくまでも推測に過ぎない。


やはり、どれも
主イエスの〈イメージ〉を固着化していると言えよう。


そして、人々は、
違う〈イメージ〉は排除し、
自分たちの〈価値〉に
ふさわしい〈イメージ〉の
主イエスを選ぶ。

そこに、
まさに十戒第二戒に
抵触する《不敬》があると思う。

なんでこんなことを書き始めたのか、と言うと、

主イエスの「復活」の記事を読んでいて、
あることに気がついた。

それは、
復活した主を、
身近にいた弟子や女性たちが、
容姿では認識できなかった、
と言う記述だ。

最も主を慕い、
身近でお世話をしていたマグダラのマリアですら、
その人が主イエスだとは
わからなかった。

墓の番人か誰かと間違えて、
「遺体はどこ? 返して!」
と問い詰めている。

それに対して、主は、

「マリア」

と呼びかけた。

その時、
その彼こそが
主イエスだと分かったのだった。

容姿ではない、

「マリア」との呼びかけで、
生前の主イエスとの
〈繋がり〉
〈関わり〉を
一瞬で想起したのだった。

福音書は、あえて、
ここは、
伝えられたままを記している。
むしろ、
そこにこそ、
重い重い事実が感じられる。

パウロはこんなことを言っている。

あなた達の間では、イエス・キリスト以外には何も(言うまい)知るまいと、決心したからである、十字架につけられたあの方以外には!
(I コリント2章2節、塚本訳)

この趣旨は、
コリントへ来る前、
アテネで公開討論のようなことをやり、
キリストの福音を説いた。

アテネの聴衆に合わせて、
哲学や論理学を駆使して、
彼らの土俵で討論した。

しかし、結果は芳しくなかった。

その反省も込められている言葉でもある。

「十字架のイエス」という、
人が「愚か」としか思わない、
その〈神の現実〉に徹して
福音を説く、
と言うパウロの決意だ。

それとは別に、
私は、この言葉に、
キリストの容姿を含む、
さまざまな主イエスのイメージを超えて、

ただ
「十字架につけられた主イエス」

にのみ集中し、
これからもする、
と言う決意の言葉と思いたい。

そこでは、最早、
主イエスの生前の容姿や仕草などは
遠のいているだろう。


突然話は変わるが、

「相貌失認(そうぼうしつにん)」という病気がある。

これは、脳障害による失認の一種で、
目や鼻など顔のパーツは
知覚できるのに
顔全体を見て、
個人の識別をすることができない。

失顔症(しつがんしょう)とも呼ばれる病だ。

今、放映されているアニメ

『薬屋のひとりごと』の

主人公『猫猫(まおまお)」の
実父「羅漢」が、
まさにその病だ。




特定の人を除いて、
大半の人は、
その顔が碁石の石としか見えない。

もう一つ、
漫画の『青にふれる』(鈴木望作)にも、
ヒロインの相手役で相貌失認の担任の先生が登場する。




彼も人の顔がわからない。
そのため、
生徒達の個性や客観的な事実を細かくノートに記録して覚える。
容姿よりも、声、言葉遣い、仕草など。
ただ、彼はヒロインだけは、そうしなくても認識できた。
それで、
ヒロインの女子高生は、
生まれつき顔面に大きなアザがあり、
彼女はそれをコンプレックスに屈折した生き方をしていたのだった。

しかし、まさにそのアザを、
先生は何かオーラのようなものとして感知し、
彼女だと認識した。
その出会いから、
自己肯定感の低かった彼女は変わっていく、
と言うストーリーだ。

この担任の先生もそうだが、
猫猫の実父羅漢も、
我が子猫猫や、猫猫を育てた甥、
それに猫猫の実母は認識できた。

深い愛着ある対象と、
そうでない他者。

実際の「相貌失認」の方が、
他者をどう認識されているか確かめたことはないので、
的外れかもしれないが、
この二つの物語から、
何かヒントが得られるように感じる。

容姿ではない、
他のもので対象を認識する。

容姿が変わっていても、
その変わらぬ〈何か〉を感じて、
その人だとわかる、
その〈何か〉は、何か?

天の国でどなたかと再会する時も、
もしかしたら、そんな感じで
相手を認識するのだはないだろうか、と。

もう一つ、
若年性アルツハイマーで夭逝した友人の話し。

彼がだんだん記憶を覚束なくなり、
私たちの顔が認識できなくなって行く。

この過程で、
その最後まで認識できたのは、
〈声〉だと言ってくれた。

容姿ではわからないけど、
〈声〉なら、なんとなくわかる、と。

ここにもヒントになることがあるように思う。











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