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『ローズンゲン』(日々の聖句)書写


2024年1月1日 月曜日

今年も、
『ローズンゲン』(『日々の聖句』)の書写を心してやろう。

『日々の聖句』
旧約 イザヤ 7:4

これに告べし なんぢ 謹みて靜かなれ
(文語訳)

そして彼に言いなさい、『心して、平穏であれ。恐れてはならないし、また心を弱くしてはならない。
(岩波訳)

『くれぐれも軽挙妄動を避けよ。恐れることはない。
(中澤訳)

意味としては、中澤訳がピッタリだけど、やはりここはヘブライ語のキーワード「シャーカット」(静か、穏やか」を上手く残したい。

ギリシャ語70人訳では次のようになっている。

καὶ ἐρεῖς αὐτῷ Φύλαξαι τοῦ ἡσυχάσαι καὶ μὴ φοβοῦ, μηδὲ ἡ ψυχή σου ἀσθενείτω
(LXX )

そして彼に言うのだ。『つとめて、冷静であるように。恐れてはならない。(‥‥)弱気になってはならない。
(秦 訳)

ここにあるἡσυχάσαι (ヘーシュカーサイ)がそれに相当する単語。

ヘブライ語の
‎שׁקט
(シャーカット)に相当。

これは辞書によるとこうなる。

ἡσυχάζω(ヘーシュカゾー)
(<ἥσύχος=ἡσύχιος、静かな)
静かである、静かにする
落ち着いた生活をする、休む、黙っている。

これについては、新約の書写の後に述べる。

『日々の聖句』
新約 ルカ 4:18, 19, 21より

18『主の御靈われに在す。
これ我に油を注ぎて貧しき者に福音を宣べしめ、
19
主の喜ばしき年を宣傳へしめ給ふなり
21『この聖書は今日なんぢらの耳に成就したり
(文語訳)

18主の霊が私の上にある。
主が私に油注ぎ給うたからだ。
貧しい者たちに福音を伝えるために。
19主に受け入れられる年に告知するためである。
21ここに書かれてあることが、今日、あなた方の耳で成就したのだ。
(田川訳)

18, 19はギリシャ語70人訳の『イザヤ書』61章1, 2節からの引用。

Πνεῦμα κυρίου ἐπʼ ἐμέ, οὗ εἵνεκεν ἔχρισέν με· εὐαγγελίσασθαι πτωχοῖς ἀπέσταλκέν με,
( LXX )

主の霊が私の上に(ある)。
主が私に油を注がれたからである。
主はわたしをお遣わしになった。
貧しい者たちによき知らせをもたらし、
(秦 訳)

このイザヤの預言が、こうして主の話を聞いている今まさに実現しつつあるのだ、と言う主イエスの宣言。
ユダヤの会堂で巻物のヘブライ聖書のいざやの一節を読み、会衆を見渡しながら、主イエスがこう語った情景が目に浮かぶ。

***********************
さて、
旧約のイザヤ書にあるἡσυχάζω(ヘーシュカゾー)は、重要な言葉で、
初期のクリスチャンや、
その後隠遁生活で祈りに専念し清貧を実践した者たちに繋がり、
ギリシャ正教会の「ヘシカズム」へとなった。

ヘシカズム(Hesychasm)
東方キリスト教会 (正教会)における神秘的修道思想およびその実践。
絶え間ない祈りによって神を黙想し,それによって聖なる静寂 ἡσύχια(ヘーシュキア)に達しようとした。

その祈りが
『イエススの祈り』と言われるもの。
【和 訳】
主イエス・キリストよ、罪人なる我を憐れみ給え。

【ギリシャ語】
Κύριε Ἰησοῦ Χριστέ, Υἱέ τοῦ Θεοῦ, ἐλέησόν με τὸν ἁμαρτωλόν
(キリエ イエスー クリステ、ヒュイエ トゥー セウー、エレエーソン メ トン ハマルトーロン)
〔主よ イエス キリストよ、子 神の、憐れみ給え 私を 罪深い〕

(女性が祈る場合はτὴν ἁμαρτωλόν(テーン ハマルトーロン)と言い換える)

【ラテン語】
Domine Iesu Christe, Fili Dei, miserere mei, peccatoris.
(ドミネ イエスー クリスティ、フィーリ デイ、ミゼレレ メイ、ペッカトーリス)
〔主よ、イエス キリスト、子 神の、憐れみ給え 私を、罪深い〕

この「イエススの祈り」をひたすら唱え、黙想した。
念仏専念や修験者の修行に似ていて、忘我の域に達するものかもしれない。
このヘシカズムから独特の神秘的な進学思想が生まれ、多くの著作も残された。
この流れは正教会と共に引き継がれ、ロシアのドフトエフスキーなどにも影響を及ぼしている。

私はこの祈りを、ロザリオの祈りで「アベ・マリアの祈り」の代わりに祈ることにしている。

また、この言葉から、ニーバーの『セレニティ(静謐)の祈り』
を思い起こす。

God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.

神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
静穏のうちに変えられないものを受け入れ
変えるべきものを変える勇気を
そして、変えられないものと変えるべきものを
峻別する知恵を私に与えて下さい。

また、内村鑑三の『静謐の所在』と題された短文を想起した。

静謐は天然にあり、神の造りし天然にあり。静謐は聖書にあり、神の伝えし聖書にあり。一輪の縷斗菜(おだまき)の露に浸されてその首(こうべ)を低(た)るるあれば、一節の聖書のわが心中の苦悶を宥(なだ)むるあり。怒濤四辺に暴(あ)るるときに、われは草花に慰癒を求め、旧き聖書に世の供しえざる安静を探る。
一九〇四年、内村鑑三所感集115ページ、岩波文庫

新年を迎え、今年こそは、かくありたし、と願う。

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