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『痛みと悼み』 二十八

聡二さんは笑う。家族との葛藤を暗示するような複雑な照れ笑いのようにめぐむには見える。
「前来てくれたときに、込み入った話だから結論だけ言うと、すんなり神学部に進んだようなことを言ったよね。」
「込み入った話って、どんな話ですか。」
照れ笑いの後の、微妙な沈黙。そして、ため息が漏れるような言葉が続く。
「絶対的な権力者のようだった祖父が、老いに伴う病気になった。結局数年後には、亡くなってしまった。最後は自分が自分であることも失ってしまった。」
「それはお気の毒でした。」
「でも、それはある意味、生きていて仕方がないことだ。ただ、もしファイナンスの神様がいるとすれば、常に強い力で握り続ける握力が必要みたいだ。その力がなくなったとき、その神様は離れていく。人は老い、病になり、死んでいく。それは、いくら富があっても避けることはできない。」
「それで、疑問を持たれたんですか。」
「お金って、ある意味大事なツールではある。でも、一種のメタファーだとすると、それ自体に意味はない。それを大事に守り続けることって、強い力で握り続けることって、どんな意味があるんだろうってね。」
「お祖父様やお母様にそのことをお伝えになったんですか。」
「まさか。自分たちが信じている絶対的な神を疑えと、絶対的な神官と忠実な巫女に投げかけることなんて、高校生の僕らにできることじゃない。」
「お兄様もそう思われたのですか。」
「そう。ただし、現れ方は全く違った。兄は、どれだけ富があってもそれがメタファーに過ぎないことを実証しようとしたのかもしれない。有り余る富が幸せを保障しないことを、有り余る富を持って証明するって。こっちの方がある意味、歪んでいて激しい。」
聡二さんは俯いて苦笑する。
 「兄も私も、そんな風に母や祖父への抵抗だけはあったんだろうね。でもこの激しさは、ある種、まさに彼らから引き継いだものでもあるのかな。でも、その抵抗の進む方向がなぜか全く違った。兄弟なのに、不思議なもんだね。」
 「まったく反対方向」
 「そして、兄はもっと激しい金儲けにのめりこんだ。言ったように、多分、兄は本当に金自身には興味はないんだろうと思う。一種の静かな復讐、小さな金持ちへの、大きな金による虚しい復讐。」
 神経質そうに、玄関でハンカチを口に当てていた痩せた瑛一さんの姿が浮かぶ。あの姿が、妙に不安定で弱々しく見えたわけが少し分かったような気がする。
 「そして僕は、金とはおよそ縁遠いところに走って行った。」


 「そういう意味で、正反対。」
 それを聞くと、聡二さんは上を向いて笑う。大きな喉びこが見える。
 「そのとき、お母様は、聡二さんの進路に何も言わなかったんですか。」
 「最初に聞いたときは、驚いたみたいだ。なんとなくずっと祖父から言われ続けていたことを、母も僕たちもことあるごとに聞いていたからね。それが、なんとなく怪しげな雰囲気を醸し出して、突然、大学の進路みたいなところで、全然違う神学部なんて言い出したもんだからね。それは、祖父ともちょっとした激しいやり取りになった。」
 「高校生で、そんな風に突然に神学部に行くというと普通でも驚かれるでしょうね。」
 「僕の通った大学は、キリスト教を元にして学校が出来たんで、全国的には珍しく神学部があったんだ。それで、僕は神学部、兄だけが経済学部に入ったんだ。」
 「お兄様は、そのときはまだレールの上を走っていた。」
 「いいや、兄もその頃から確信犯だ。でも、兄がレールの上を走っているように見せてくれたので、僕については半分諦めてくれたのか、神学部への進路はまあ、なんとか許してくれた。でも、やがて兄も復讐のために離れていくのにね。」
 「一つ、質問してもいいですか。」
 めぐむは、無理に明るく話す聡二さんが、母のその隠された激しさを一番引き継いでいるのではないのかと思う。その激しさをテコにして、レールに逆らって自分の意思で逸れていく。それは、唐突なほどに。