出亜江ノイト
摂津の西国街道沿いの平和な村にも、戦国時代の混乱の影が忍び寄る。武将たちの衝突、キリスト教の布教、天候不順と飢饉、家族の繋がり、その中で少年弥太郎は、何に希望を見いだすのか。
金春あかねは12歳。 愛犬のくろがねとともに、ある日、東京から神戸の異人館にある小さな石造りの洋館に向かう。 神戸の美しい夜景が広がる山の中腹のそのホテルで、あかねは、夜景が突然消えた日に愛しい人を亡くした京極さまと出会うが、火事に巻き込まれてくろがねを見失う。 くろがねの行方を捜すあかねは、京極さまと再会するが、それは思わぬ形だった。
ネグレクトを受けて育っためぐむは、高校卒業とともに、家を飛び出す。長い別居のあと、偶然知った母の終わりの姿に衝撃を受ける。 絶望した彼女は、ある日、特殊清掃という仕事と出会い、その中で、いくつもの家族と知り合う。 人とのつながりに背を向けようとする彼女がやがて見た、母の本当の姿とは何か。
ショウヘイは、病院のベッドの上で目が覚める。どうしてここにいるのか、全く思い出せない。そんな彼は、ある日、目の前に現れた雷男の引き起こす騒動に巻き込まれていく。なぜ記憶を失ったのか、失った記憶を彼は取り戻すことができるのか。
第1 ガラス窓 私は、ガラス窓の向こうに見えるベッドに意識なく横たわる女性に、形にならない言葉を語りかける。 彼女は決して応えることはない。 彼女を襲った事故のような出来事、彼女と時間を共有していた人たちが突きつけらたことを、私は知っている。 悲しい事故は、かつてあったこと、そして、これからもあること。 運命は、残酷なムチを気まぐれのように振るうのだろうか。 ベッドのその若い女性を見つめている、ガラス窓の外の女性に気づいた。 もし意識が戻れば、見つめられている女性は何を思う
古事記(日本書紀)に、亡くなったイザナミを連れ戻しに黄泉の国に出かけるイザナギの話があります。火の神カグツチを産むとき、イザナミは産道を焼かれて死んでしまったのです。この世に戻るまで振り返って自分を見てはいけないと言われたイザナギは、振り返ってしまい、死が与える変わり果てたイザナミの姿を見て逃げ出します。 「愛しい⼈よ、こんなひどいことをするなら私は一⽇に一〇〇〇の⼈間を殺すでしょう」とイザナミは叫びます。イザナギは「愛しい⼈よ、それなら私は産屋を建てて一⽇に一五〇〇の⼦を産
やがて入ってきた若い穏やかな男性裁判官から、同じことが告げられた。 三人に頷いて立ち上がろうとして、投げつけるようによろめいて白い壁に手をついた。 恥ずかしくなって何度も頭を下げる。 心配そうな視線を避けるように、やっと部屋の外に出た。 廊下を通ってエレベーターに向かう。 その前で、それまで唯一明確な道筋を知っていた、波子の弁護士さんと会った。黒髪の豊かな大柄の年配男性だった。 困ったような顔でチラリと僕を見る。電話口で自信に満ちあふれていた彼は、波子の突然の申し出にまだ戸
波子は、来ていたんだ。モンシロに、カゲロウ親子に誘われるように。 波子は、とつとつと語られる言葉を、ゆったりした行間のなかに、愛おしむように置いていた。決して雄弁ではなく、たどたどしく語られる、思うように形にできないカゲロウの思いを、形のない姿で示そうとしていた。 聞き手としての姿を消そうと努めている波子を、アゲハが見上げている写真があった。写真の枠の外にいるだろう波子を、少し口を開けて手を差し伸べるアゲハにはボカシがかかっていて、白黒の写真の下に、短い言葉があった。 無意識
アゲハは、どこか暗いところで、カゲロウや警察の人たちを傷つけたこと、それを引き寄せたものが自分だと責めている。小さなアゲハの心が、ねじれて泣いている。 強く頭を振ると、落ち葉の動きが突然止まった。 時間が止まった。時が経てば記憶も薄らいでいく。抑えられた自分とカゲロウの苦しい顔の記憶も叫ぶ声も、そんな記憶は鮮明に残るべきではない。 再び力が与えられたように、落ち葉が強い風に煽られて公園のすみに消えた。記憶を持ち去るように声も消えた。佐々木の憐れむような顔が見えた。 空を見上げ
壊れた。 彼女の言葉が僕を指しているように思って、めまいがした。 波子の次、今度は、モンシロとも離れた。 僕には、遠心力のような力が働いているのだろうか。 波子も、モンシロも、アゲハも、離れていく。 慌てて彼女に頭を下げて踵を返す。 駅に向かう道をまっすぐ歩きながら、ふと頬が暖かいのに気づく。涙が流れていた。大人が泣くのはみっともない。そんなことを、もう一人の僕が言っている。だけど止まらなかった。地下鉄の駅までずっと早足で歩くと、時折すれ違う人が不思議そうな顔をしてチラリと僕
青いジーンズと黒いブルゾンの、怒った母親の慌てた姿。 どんな怒りの表情をしたのだろう。 愛情の裏返しの複雑な怒り顔。 この子は、抗いながら自分の足で立とうとしている。 大人から見ればそれが危うい姿であっても、懸命に自分で何かを考えている。 でも。 アゲハには、あの幼い子どもには、まだ自分で立つ力はない。今の彼女には、そんなアゲハが、岸辺に繋がれた綱が解かれて流されていく、小舟のように見えているのかも知れない。モンシロは、悲しそうに岸辺からその小舟を見つめている。目線の先には、
彼女は、今、ある種の心のバランスを失っているのだろうか。正面から見える、傾いた頭頂には天井の灯りで、健康的で綺麗な天使の輪が見えた。なんだかここが違うところのように思える。もう一度周りを見た。白い壁とつまらなそうな立会い警察官の視線だけだった。 面会の時間は限られているのに、砂時計の落ちる砂のように沈黙が積み重なっていく。 「こわれた。」 モンシロはそれだけポツリと言った。こわれた、壊れた、その言葉をモンシロの口から聞いたことがあった。ホテルの喫茶室だった。彼女の父親の時間を
「会ってきたよ、あの子の本当の名前を知りたいかい。」 携帯電話にかかってきた佐々木の声に、僕は首を横に振った。 「そうか。」 佐々木は間を置くと、少し小さな声で続けた。それは、何を言って何を言うべきでないか、遠くで考えているような声だった。良い終わり方は遠くで終わることなんだ。そう言われたことを思い出した。 「弁護士には守秘義務があるから心配はいらないと言ったけど、結局、彼女は肝心なことは何も話さなかったよ。」 ため息のような間が空いた。 「まあ、仕方がないかもしれない。掠取
あの雨の日以来だった。無人の公園のベンチが待ちぼうけて佇んでいた。黄色い警戒線もなく、記事がここでのことだなんて嘘のようだった。 勘違い、そう思おうとしたとき、ふと、四角いコンクリートの箱に気づく。 あの日分からなかったのはどうしてなのだろう。公園の角から通りの方に向かってこちらに背を向けている小さな建物。 回り込むと、赤色灯を掲げた入口と、この小さな建物に合わせたような体の小さな制服姿の女性警察官が見えた。受付の机に座り俯いて何かを書いている。 事件、モンシロの居場所、交番
何も帰ってこない沈黙に、僕は降参する。 「確かに。でも、徒労感をもたらす叫びやみっともない涙は、本人にとって救いになるときもあるんじゃないか。」 テンカウント前に起き上がったボクサーを前にしたように、彼は意外な顔をして面白そうに、続ける僕の顔を見る。 「みっともないことが、何かの捌け口になる。無様な格好がまだ燃え残った何かを燃やしてくれることもあるかもしれない。」 「何かの最終処分場みたいなものだね。」 今の僕がまさにみっともない最後の成れの果てだろう。 「それで残る徒労感は
「まだ余裕があるところは、敬意を持って褒めよう。「嘘つきのパラドックス」だ。全ての弁護士は嘘つきだと仮に僕が言う。この言説が真実なら嘘をつかなかった僕は弁護士ではなかったことになる。」そう言って彼は両手を上げる。 「だから僕は今「ほぼ常識に近い」という言い方しかできない。誠実で正確を期す弁護士であればね。」 声のない笑いで白い歯がこぼれた。納得したことと示すように、僕は黙ってテーブルに置かれたコーヒーに手を伸ばす。こういう鋭いところが、弁護士として優秀と言われる理由なのだろう
言葉にする、理由を見つる僕の努力。 それが誤りの源なのか。 波子との終わり、終わらなければならない理由を見つけようとする僕には、概念へのこだわりがある限り、何も生まないのだろうか。 詩にして言葉を紡ぐモンシロは、言葉の情報量、むしろ言葉と言葉の間の空白の情報量の中にこそ彼女の場所がある。 でも、と思う。人は概念の生き物だ、そして概念は言葉だ。正確であり一義的であるべき概念、モンシロはそれを否定するように、言葉の曖昧な霧の中で、微かに浮かぶ記号から生まれる揺蕩うようなイメージ、
モンシロは表情を変えない。僕は、この不思議な空気の中の答えを探す。 カゲロウは、多分、懸命に彼女なりに、馴染めないまま、それが彼女の何かの限界なのか、生きてきて、アゲハを授かった。その限界が性格のためか年齢のためか、あるいはここに彼女がいたことからなのか、育てられないと思われて、アゲハはある場所(それは、多分、そんな場合、公的にはそれがもっともふさわしいとされる場所なのだろう。)に引き取られているのかもしれない。なのに、アゲハがカゲロウのもとにやって来たのか、カゲロウが勝手に
高く寒い空、その下で、彼女の存在が透明で薄く見える。大人びて見せようとしている薄皮が剥がれて、その下に痛みに悲しむ少女がいる。 彼女は、アゲハを求めているのに、僕を伺って一歩も動かない。猛禽類にヒナを攫われそうになって一瞬だけ戸惑った親鳥。スーツを脱いで走り出したら、あっという間に闘う姿が現れるのだろうか。 張り詰めた静かな瞬間、アゲハが嬉しそうに声をあげて走り出してその足に飛びついた。 変わらないモンシロが、薮にらみの目で二人を見る。 「あの子はアゲハで、君はモンシロ。」
「アゲハ。」 彼女がそう言うと、男の子が頷いてモンシロの胸に倒れるようにもたれかかった。モンシロは男の子を抱きしめて、ベンチに座る。目を瞑った横顔が見えた。 「ママが、ここで待っててって言ったのね。」 モンシロの声に、目を瞑ったまま吐息のように男の子は頷く。カーキ色の膝丈の半ズボンと汚れたスニーカーが見えた。ジャンパーの襟ぐりは垢染みて裾は擦り切れている。汗と垢と幼い甘さの混じった匂いに、この子の暮らしが見えた気がした。鋭い痛みを感じる。モンシロの薄い体と目を瞑って抱えられる