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詩 『夜想曲 ~愛犬パテに捧ぐ』

作:悠冴紀

似た者同士の歴史がまた一つ
命の幕を下ろした

君は私の一部だった
私は君の一部だった

なぜだか私には
君が安らかに微笑んでいた気がする

私の欠片かけらを 持っていくといい
月夜に聴き入ったあの夜想曲と共に

なぜだか私は
違和感を覚えない

緑の眼光が解けたその瞳は
悟り尽くしてゼロになって
死よりも先に 自然に還っていた

なぜだか私には
穏やかに微笑む最期の姿が見えた気がする

出会いは ある雨の日だった
白い兄弟の中に たった一匹
黒い色をした はみ出し者

小さな身体で 這うように
君はこの足元へ 歩いて来た
おぼつかない足取りで ゆっくりと
君と同じ このはみ出し者の足元へ

耐え難い日常の中
並んで月を 見上げていた
草の匂う大地に二つ
確かな影を 映し眺めた

その小さな分身を隣に
私はいくつ詩を生み出しただろう

選び選ばれ 私たちは
二つの道を 重ね歩んだ

思考と理屈の枠を超え
感性の共有に酔いしれた

恐怖に凍えて 怒りに燃え
憎悪も尽きて自然に還った 緑の瞳

忘れもしない
君との月日

二人で共に 駆け抜けた
二度とは繰り返したくない過去を

君は確かに 全うした
永遠ならざればこそ耐え抜けた生を

壮絶な日々を越え 私達は
速く走りすぎたのかもしれない

逃れられない必然を背負い 私達は
激しく闘いすぎたのかもしれない

見渡せば いつも
今は亡き過去の私達を見つめる大勢

日没を迎える遥かに以前から
尽き果ててしまっていた

広大な宇宙の底に生まれ
このゼロの地に到達したとき
互いの他には 誰もいなくなっていた

夜明けを目にする頃には
すでに無に還ってしまっていた

パテ、
私はいつでも 傍にいた
その灯火の消える瞬間まで

私はずっと そこにいた
見えない腕の中に
その小さな命の結晶を抱き締めて

求めた自由への これが回答か
その最期に哀歌エレジーは似合わない

私の戦友が今
解き放たれた

自由の果てへ 持っていくといい
君と共にあった この魂の切れ端を

───また二人の季節がやってくる

夏は余韻を鮮やかに
秋は仄冷たい風に乗り
空は一層深まって……

パテ、
この静寂の月夜に 今再び
二人のノクターンを奏でようか

**************

※2000年(当時23歳)のときの作品。

今は亡き愛犬パテに捧げた若き日の一作です。
能天気な現在の私とは違い、若い頃の方が色々と苦悩していて、作品自体も解説の部分(というか関連エピソード?)も、陰鬱なテイストのものが多いのが難点ですが (^_^;) (_ _)

〚 P A T E 〛

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さて、渦中のパテ君についてですが、哀愁漂う眼差しが何とも言えず人間的で、晩年には仙人のように悟り尽くした表情をしている犬でした。(← さながらヨーダのよう・・・笑)

上の写真 👆 がそのパテ(♂)です。マルチーズとヨークシャテリアとの雑種だと聞いていたのですが、写真を見てもわかるように、いざ引き取ってみると何やら謎な犬種でした (^^;) 子犬のときにはけっこう凶暴な性格をしていて、怒ると瞳が緑色に光るという妖しげな一面のある、人懐っこさ皆無の犬でした。(動物は素直なので、生育環境の悪さがそのまま表に出ていたのでしょう💧)

ですが、そんな荒んだ時期も経てこそ、やがてその感性が円熟の域に達し、仙人じみた存在感を放つようになったのだと思います A^_^;) 今振り返っても、とても犬とは思えないくらい人間的で、私にとっては、まさに苦楽を共にした『戦友』という感じでした。

ちなみに、私の詩作品に時おり登場してくるもう一匹の愛犬、シーザー(←ゴールデンレトリーバー)は、パテよりも何年か後に我が家に迎えられた身なのですが、はじめはやはり、パテと互いに嫉妬の火花を散らし合い、不仲でした。顔を合わせる度に威嚇し合うそんな二匹の様子から、パテには一時期「ブルータス」の異名が与えられるハメに……💧

── とは言え、なにぶん二匹とも、人格破綻者揃いの我が生家(←バケモノ屋敷? 笑)のお育ちですから、やがては双方ともに、イヤでも人間の醜さ・身勝手さ・残酷さといったものを思い知ることとなり、飼い主たちの愛を独占しようという喧嘩の動機それ自体が、端から無意味であることに気づいたようでした。結局のところ、自分以外の誰も愛せないような人間たちに、なすすべもなく飼殺しにされていくだけの身、という出口のない絶望感というか、共通の虚無感のようなものから、最後には同じ諦観の域に至り、「同病相哀れみ」といった感じで、これまた実に人間的な絆を築いていったのです。

かつてブルータスと呼ばれたパテ君は、21世紀を迎えないうちに、実家の庭の花菖蒲が咲いていた花壇で、独り静かに死んでいきました。その数年後にシーザーが息を引き取るとき、パテが果てていたのと同じ花壇を選んで横たわっていたのは、なんとも皮肉で切ない最期でした😢

信頼に始まり裏切りに終わった歴史上のシーザー&ブルータスとは反対に、敵対関係に始まり絆で結ばれたあの二匹は、やはりどこか深いところで通じ合う宿命的な存在だったんだな・・・と、改めて思ったものです (T_T)

まあ、これも人間ならではの身勝手な解釈なのですが。

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〚 C A E S A R 〛

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ハイ☝ ここからはまた一段とダークな話になるというか、今回の詩作品の主役パテではなく、シーザーにまつわる悲劇的な回想になります。泥臭い話が苦手な人は、ここで読むのをやめてください m(_ _)m ▼

パテのときには、私はまだ生活力のない身(未就労の学生)だったので、なすすべがありませんでしたが、シーザーが非業の死を遂げる頃には、私はすでに自活していて、大学も卒業したあとだったのだから、あんなこと、、、、、になる前に、どうにかあの牢獄のごとき実家から連れ出し、薄情な両親の元から亡命させるべきだったと、今でも悔やまれます。

……え? 何があったのかって?

パテは老衰とも言うべき自然死で、最期だけは安らかに世を去ったので、まだマシでした。対するシーザーの方はというと、かなり悲惨な最期だったのです😢

当時の私は、ただでさえ大学の奨学金の返済で金欠病だったところに、気狂いじみた(というか言葉通り狂っていた)モンスターペアレンツの絶え間ない人生妨害工作で、仕事も居場所も転々として落ち着きどころのない状況だったので、自分自身が今日を生き延びるだけで精いっぱいでした。一時は、生活困窮者として友人の家に転がり込んで、肩身の狭~い居候の身に……💦

そんな私の元で飢え死にさせるよりは、どんなに精神的苦痛を強いられるひどい環境でも、最低限ご飯だけは食べさせてもらえて、どうにか物理的には生存していけるのなら、その方が犬にとってはまだマシだろうと思った私は、シーザーを救出しに戻ることなく、実家に置き去りにしてきたのです。

その結果、この世で唯一信頼して懐いていた飼い主である私に見捨てられた(と思った)シーザーは、暗闇の中ですがりついた一筋の光、最後の希望とも言えるものを断たれた絶望感とストレスからか、外に干してあった布団を半狂乱に引き裂き、中の綿を大量に食べて腸に詰まらせ、自殺としか言えない形で死亡しました

パテと同様、あるいはそれ以上に、感性や表情や行動パターンが人間臭くて知性の高い犬だったので、この「絶望感」とか「自殺」説とかいうのは、決して私の誇張や的外れな憶測などではないと断言できます。実際、シーザーを置き去りに実家を去った約一年後に、こっそり私物の一部を取りに戻ったとき、私が、まるで我が子を里子に出した身勝手な親のように、感動の再会を期待して手を差し伸べると、シーザーは明らかに私を責める目つきで、大きく(当て付けるように)溜息をついて、「長い間こんな地獄に僕を置き去りにして、今さら何の愛情ごっこだ!💢」とでもいうような醒めきった視線を向けてきました。感動の再会どころか、私を睨み付けて寄り付こうともしなかったのです。

そこで私が上塗りした更なる愚かで身勝手なミスは、「なんだ、以前は私だけを頼りにしていたから 心配で心配で仕方なかったけど、ここまでとことん私に愛想を尽かすことができたなら、逆に言うと、もう私がいなくても大丈夫ってことだな。環境に順応して、ここでこのまま生きていけるだろう」と都合よく捉えてしまったことでした。失望したようなムスッとした態度で相手の差し伸べた手を突っぱねたり、わざとらしく冷やかな目つきで溜息をついて見せたりするのは、それ自体が最後手段的な精一杯の甘えの表れで、試し行為の一種。「信じていたからこそ傷ついたし腹が立ったぞ。償いの意味も含めて、これまで以上に僕に構って、どんな我儘でも聞いてくれよなっ!💨」という裏返しの愛情表現だったというのに、当時の私には読み取れなかった。「すっかり失望されて、もはやシーザーの中に私は存在しない。すでに私のいない道を歩んでいるんだ」としか思えなかったのです。

そして私は、二度もシーザーを置き去りにした。自分の今後に必要な、どうしても捨てられない私物(←主には執筆作品の原案や資料や手作り本)だけをパッキングして、再び一人で立ち去ってしまった。その後わずか一ヶ月足らずのうちに、シーザーは自暴自棄に大量の綿を飲み込んで果てました。

……これが私の招いた死でなくて、一体何だというのか?

自分のせいではない筋違いな事柄で、不必要に自分を責めてしまっている人は世の中に大勢見受けられますが、このケースはさすがに疑いの余地がないでしょう。実家のどす黒い背景事情がなければ起きなかった悲劇とは言え、状況を誰よりもよく知っていて、唯一助けられたはずの私が、誤魔化しようもなく明確に「見殺し」という行動を取ったのだから、確実に私が死なせたのです。(← そう言えば、今振り返ると、『ソフィの選択』で過去にソフィが究極の選択を迫られ、自分の子供の一人をガス室送りにしてしまったシーンで、他人事と思えずにズキッ! と刺さるものを感じたのは、このあたりの体験とリンクしたせいかもしれません。)

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そもそもの問題は、相手を救い出すだけの経済力もない分際で、自分がいなくなったら生きていけなくなるほどの愛情を無責任に注ぎまくり、依存関係を築いてしまった点にあるのです。その結果が、自分を心底から必要とし、信頼してくれた者の死だった。

だから私は、二度とペットを飼えなくなりました。資格がないし、二度とは繰り返してはならないし、二度とは耐えられない。そういうわけです。

どんな間柄でも、命を預かるからには、最後の最後まで責任を果たせる身であるべきでした。複数の不可避な事由のために、数年のうちに十数回も転々と引っ越しを繰り返して、逃亡犯さながらに落ち着きどころのない生活を送る私のような流浪者は、いっそ誰にも信頼されるべきではなかった。まして相手が、自分で自分の面倒を見ていける自立した人間ではなく、人為的に野生の本能を奪われ、自分自身では囲いの外に出ることすらできないペットであれば、尚更のこと。

以前、何かの作文で賞を取った小学生が、ペットについて書いたこんな文面を新聞で読んだことがあります▼

「続けられない愛情がどれほど残酷なものか知りながら、僕はなんて身勝手だったのだろう」

ずいぶん前(20年ぐらい前?)に目にしたものだし、しかもその後その記事を紛失してしまったため、前後の文脈や正確な表現、またその小学生の名前すらも、今はもう思い出せないのですが、確かこんなような一文だったと思います。その言葉の重さは、今でもズシンと響きます。何しろ、私はこの手の話において、明らかに有罪の身ですから。

憎しみや怒りといった負の感情が何かを破壊することぐらいは、ずっと以前から知っていた。それが自分自身や特定のターゲットのみならず、時に無関係の他者まで不幸にすることも。

でもまさか、愛情や信頼といったプラスの感情をもってさえ、大事な相手を破滅に追いやろうとは……。

マイナスの感情以上にプラスの感情の方が、より残酷に、より深く、相手を傷つけるのだと知ったことで、表を向いても裏を向いても有害な破壊者でしかない自分の実態に、それこそ とことんまでも愛想が尽きたものです。(経験に学び、以前にはなかった落ち着きを得た今の自分なら、少しはマシな接し方ができるかも、とは思うものの、過去の事実までは変えられない。今更取り返しがつきません。)

以来、「自分が命ある他者と関わり合うときは、相当な距離をおいて、その生命に直接的には影響を与えない立ち位置でしか接してはならない。まして自分一人にべったりと依存させてしまうようなことは、二度とあってはならない」と、自分で自分に言い聞かせて生きるにようになりました。見る人次第では単なるマイナス志向や陰気な解釈としか思えないかもしれませんが、シーザーの一件以外にも、色々ありましたからね。要するに、愚かな失敗体験、加害行為の類いが、人間相手でも色々と──😓


!:内容が内容なので、読む側も胸がざわついて言いたいことが山ほど思い浮かぶかもしれませんが、この手の話題に対して、私への直接的な慰めや励ましといった類いのコメントは、極力お控えください m(_ _)m 申し訳ありませんが、それらは異なる考えの押しつけか、是が非でもポジティブな解釈をさせてやろうとする意識操作のように感じられて、ひねくれ者の私には嬉しくありません💧 ただし、あくまで単なる意見・感想──たとえば作中のこのくだりが切なくて印象的だったとか、自分も同じ犬種を飼っていて色々思い出しましたとか、新聞記事の言葉が響きました、といったコメントの範囲内であれば、問題はありません👌)

注)この作品を一部でも引用・転載する場合は、「詩『夜想曲~愛犬パテに捧ぐ』悠冴紀作」と明記するか、リンクを貼るなどして、作者が私であることがわかるようにしてください。自分の作品であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たります。

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