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詩 『無機質のユートピア』

作:悠冴紀

人は何にでも慣れるという
苦痛にも 恐怖にも 悲しみにも

少しでも楽になろうと望むあまり
己の感情を麻痺させる

確かに人は慣れていく
富にも 貧困にも 死臭にさえも

馴染んではならぬものもあるとは考えもせず
強さと信じて 慣れていく

人は自分で思うほど器用ではない

これほどの変化に馴染めたなら
他のどんな変化にも順応できるはずだと
驕り 高ぶり 過信する

激変に馴染めば馴染むほど
己の何かが摩耗して
二度と復元できなくなるとは
知る由もなく

人は何にでも慣れようとする
大昔からずっと そうしてきた

大勢の流れに馴染むため
あえて自ら「自分」を辞め
進化と信じて 魂を売る

組織に 集団に 全体に
唯一無比のかけがえのなさを削ぎ落とされ
抜け殻ゆえの一体感に
無機質なユートピアを重ね見る

揺るぎなき機能を目指し
歯車の一部に組み込まれ
「人」を超える特別な存在になれると信じて
役割だけの ただのモノへ
──

モノだ
そう
それはモノだ

***********

※ 2013年5月の作品。

人間は順応性の生き物。

子供時代には、まだ世を知らず無知であるがゆえの漠然とした恐怖や不安から心を守るという、内的な課題で手がいっぱいだった人々も、やがて少しずつ外に踏み出して、現実的な経験を積んでいくうち、今度は周囲からもたらされる刺激や困難に対する外的な課題が出てくる。ですがそこで、私たちは、社会や集団組織といった大きな流れの中にあっては、必ずしも解決できる事柄ばかりではなく、むしろ変えようのない問題があまりに多い現実を知る。

そんなとき、多くの人々は、目の前の不可抗力な事柄に対して、とにもかくにも慣れようとする。いちいち疑問を抱いたり苦痛を感じていては身がもたないからと、自分の一部を麻痺させることで、眼前の矛盾や不条理に対してあえて鈍感で無頓着な状態を作り出し、状況に馴染もうとするのだ。自己防衛のはずだったその業が、いずれ制御不能な自己喪失への片道切符になるのだとは、知る由もなく。

人によっては、更にそこに、ある種の自惚れた美学を重ね見ることもある。

多くの問題に慣れて麻痺の域に至り、感情や人間性という不安定なものを脱ぎ捨てることができれば、神だか悪魔だか超人だか、良くも悪くも人々に畏れられる、より大きく何事にも動じない特別な存在に生まれ変われるに違いない、と錯覚するのだ。人間性を捨てた人間はただの畜生でしかなく、人間を超えるどころか、人間以下に成り下がるだけだというのに。

確かに、思いきって何かを捨てれば、それに代わる別のものを得るのも事実。ですが、個性を捨て去り、人間らしさを喪失した先に訪れるのは、同じ技能を持ち同じ役割を果たせる存在であれば、それが誰であろうと何であろうと自分に取って代わることができ、当の自分自身は、失われて惜しい存在とすら思われなくなるという、使用済みのロボットのような末路。使える間だけ必要とされ、役目を終えると同時に、簡単に捨てられる。

自分自身がどこかに置き捨ててきたものの大きさを、いずれ必ず思い知らされる日が来ることでしょう。

モノにはモノの末路しかない。

楽な方へ逃げ、人間性をないがしろにしてきた者が、都合よく最後だけ人間として報われる結末など、ありはしない。それは運命ではなく、必然の流れ。

そういう話です。

注)この作品を一部でも引用・転載する場合は、「悠冴紀作」と明記するか、リンクを貼るなどして、作者が私であることがわかるようにしてください。自分の作品であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たります。

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