見出し画像

詩 『事実と真実~Fact&Truth』

作:悠冴紀

一つの事実(fact)
人の数だけ存在する真実(truth)

事実がはじめに滑り出し
その後を
生まれたての真実たちが駆けていく

色違いの真実
形違いの真実
認識次第で異なる事実の化身

優も劣も無いけれど
不当な天秤にかけられる
白も黒も無いけれど
『倫理』に『道徳』に裁かれる

やがて一つが多数決で選ばれ
一般論として定着する

他の多くは沈黙を覚える
地上の光から身を隠す

それでも朽ち果てることはない

事実と思考を融合した真実の果て

暗号化された碑文のごとく
大地に眠る化石のごとく
幾重もの謎でその変遷を覆いながら
可能性の未来を指す

**************

※2002年(25歳のとき)の作品。

 この詩においては、私は『事実(fact)』+『人間の思考・判断』=『真実(truth)』と定義づけています。つまり、ただ実際に起きた出来事や、人間の目に映ろうと映るまいと実存するものが事実(fact)であり、それを見聞きした人間の意識のレンズを通して「これが事実であるに違いない」と判断されたものが真実(truth)だというわけです。

 この観点からすると、欲や願望や恐怖や固定観念などといった意識や感情に囚われれば囚われるほど、その人の見なすところの『真実』は、むき出しの『事実』から遠く離れていくことになります。人間が意識や感情のレンズを完全に外して100%の事実(fact)を認識することは、おそらく不可能でしょう。それでも、可能な限り事実(fact)に近づき、現実離れしすぎないように、常日頃から自問や検証を繰り返し、自分が何らかの意識や感情に囚われすぎて大きな誤解や勘違いをしてはいないか、自分なりに気を付けながら暮らすという姿勢は、決して無駄ではないと思います。

(👆そこで「人間にはどうせ100%の事実は見出せないんだから、無駄な努力」と開き直って、努力や心掛けすらもしなくなるのは、まさに思考停止というやつです。)

 そしてそういうことの必要性に気が付くのは、多くの場合、枠組みの外側に弾き出される一人になった時だったりします。自分自身が多数派の側にいて、大勢の同意・共感・称賛を得て安心しきっている時ほど、色んなものを見落としていて、思考が働かないものなのでしょう。そういう状態にどっぷり浸って、一度も枠組みの外へ出たことがないような人たちには、自力で何かを見出し、生産的な明日へと繋げていくことは、できないように思われます。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

注)シェア・拡散は歓迎します。ただし、この作品を一部でも引用・転載する場合は、必ず「詩『事実と真実』悠冴紀作より」と明記するか、リンクを貼るなどして、作者が私であることがわかるようにしてください。自分の作品であるかのように公開・発表するのは、著作権の侵害に当たります!

※プロフィール代わりの記事はこちら▼

※私の詩作品をご覧いただける無料マガジンはこちら▼ (私自身の変化・成長にともなって、作風も大きく変化してきているので、制作年代ごと三期に分けてまとめています)

📓 詩集A(十代の頃の旧い作品群)
📓 詩集B(二十代の頃の作品群)
📓 詩集C(三十代の頃の最新の作品群)

※ 小説家 悠冴紀の公式ホームページはこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?