かまくら堂

自分に向いた場所「note」を発見した感覚です。影響を受けたもの、振り返ってみたいもの…

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自分に向いた場所「note」を発見した感覚です。影響を受けたもの、振り返ってみたいもの、興味のあるものを書いていきたい気分です。どうぞよろしくお願いします。

最近の記事

あの頃へGO!

1975年 1975年、バーニングプロの小口健二に誘われジャニーズ事務所を退所したひろみは、シンシアと同じ所属事務所に移った。新規一転、シングルでは作詞陣に試行錯誤が伺える。この年のブロマイド売上が1位となった西城秀樹、桜田淳子とドラマ「あこがれ共同隊」で共演した。そして全曲オリジナルのアルバムがリリースされた。筒美サウンドとシングル「あの日にかえりたい」がミリオンサラーとなった荒井由実とのコラボだった。 4月、シングル「花のように鳥のように/五月の恋人たち」がリリースさ

    • あの頃へGO!

      1974年 1974年、この年の10月、ひろみの初主演ドラマ「ちょっとしあわせ」の放送が始まる。脚本は、1980年代に「金妻」ブームを起こす鎌田敏夫。1967年の竜雷太主演のドラマ「でっかい青春」で脚本家デビューした。主題歌の「よろしく哀愁」はオリコンシングルチャートで初の1位を獲得しアイドル人気絶頂のひろみの金字塔となった。前年にリリースされたシングル「モナリザの秘密」のB面「この愛はどうなる」がこの曲の路線に敷かれたあり蓋然性が高かったナンバーかと思う。モナリザは微笑ん

      • あの頃へGO!

        1973年 1973年、この年のブロマイド売り上げ年間ランキングで、前年デビューしたひろみが9位から一気に1位になった。このバロメーターで人気の急上昇ぶりが窺える。岩谷/筒美コンビによる楽曲は、ひろみの特異な声質を活かしたサウンド、そして中性的な魅力を引き立てるリリックで制作されていった。3月、シングル「愛の出発」がリリースされた。“しゅっぱつ”を“スタート”と読ませる岩谷の感性は何を意図していたのだろうか。バンド色の強いファズ・ギターと青春歌謡っぽい鉄琴のリエゾンで始まる

        • あの頃へGO!

          1972年 1972年8月、郷ひろみのデビューシングル「男の子女の子」がリリースされた。前年、ジャニー喜多川にスカウトされ、北海道旭川市で開催されたフォーリーブスのステージでファンからの「GO!ひろみ」という声援がそのまま歌手名として採用された。ジャニーは1968年にリリースされたオックスのヒット曲「ダンシング・セブンティーン」のノリを思い描き、デビュー曲を作曲者の筒美京平に発注した。いまそのイントロを聴くとそのノートに“ダンシング・セブンティーン”のワードが気のせいかピッ

          元祖アイドルからの、音故知新

          シンシア 1978年 1978年7月、シンシアは学業専念のため歌手活動にピリオドを打つことを突如発表し、その日を機に慌ただしい年になった。資生堂・春のキャンペーンソングでタイアップの「春の予感 -I’ve been mellow-」は、前作の丸山圭子に続く女性シンガー・ソングライターの尾崎亜美が編曲まで関わり、1月にリリースされた。資生堂は、テレビ放送開始以来その宣伝効果を大いに利用し、この頃はミュージシャンを起用したCMソングが盛んだった。多感な時期だった筆者のみならず、

          元祖アイドルからの、音故知新

          元祖アイドルからの、音故知新

          シンシア 1977年 1977年は、再び有馬三恵子/筒美京平コンビのシングルで幕が開けた。A面「ゆれる午後」はマイナーで哀愁たっぷり溢れる萩田光雄サウンド。B面「春の愁い」は水谷公生の印象的で耳から離れないギターフレーズがフィーチャー。一月後にリリースされたアルバム「午後のシンシア」は、オール有馬/筒美コンビの楽曲を筒美、萩田、水谷の常連で編曲を分担している。ここに新メンバーとして船山基紀が加わる。ヤマハ音楽振興会でポプコンに従事した同氏は、萩田や林哲司から刺激を受けた。年

          元祖アイドルからの、音故知新

          元祖アイドルからの、音故知新

          シンシア 1976年 1976年は、ポスト筒美京平の年だった。年末にリリースされたアルバム「ジャニスへの手紙」のA面は、シンガーソングライター、ジャニス・イアンの楽曲が収録された。聴き入るとそれは、英語詩の歌唱力は勿論のこと、当時でいえばニューミュージック調の楽曲とサウンドをバックにアーティストとしてのシンシアの存在が引き立てられている。日付順に追っていくと、前年よりさらに多彩な作家陣から楽曲を提供され、シンシアの世界観の広がりも感じる。3月にリリースされたシングル「気がむ

          元祖アイドルからの、音故知新

          元祖アイドルからの、音故知新

          シンシア 1975年 この年、ベストアルバムが3枚リリースされた。1枚目は、今までのアルバムに収録されてきた洋楽ポップスカヴァーのセレクトアルバム「南沙織 ポップスを歌う」。ファーストアルバムからは「17歳」の下地となったリン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」がピックアップされメモリアルなナンバーであることが伺える。2枚目は、ベストアルバム「南沙織デラックス」。初めての2枚組アルバムには、オリジナル25曲がセレクトされ集大成となっている。デビューアルバムからは「ふるさとの

          元祖アイドルからの、音故知新

          元祖アイドルからの、音故知新

          シンシア 1974年 デビュー4年目。前年にリリースされたシングル「ひとかけらの純情」を収録したアルバム「ひとかけらの純情」がリリースされた。収録曲の構成はハーフ(オリジナル)&ハーフ(カヴァー)。しかし従来と異なるのは、カヴァーされる原曲が懐かしの洋楽ポップスから、進行形のヒットチャートに変わった点だ。英語が堪能なシンシアの意向だったのか、酒井政利プロデューサーの方針だったのか。そしてシングル「バラのかげり」がリリースされた。ストリングスが忙しいサウンドをバックに、シンシ

          元祖アイドルからの、音故知新

          元祖アイドルからの、音故知新

          シンシア 1973年 デビュー3年目。この年5枚リリースされた最初のシングルは前年のアルバム「早春のハーモニー」に収録された「ふるさとのように」を改題した「早春の港」だった。同年4月、同じCBSソニーからリリースされた浅田美代子のデビューシングル「赤い風船」とサウンド面を聴き比べると興味深い。B面「魚たちはどこへ」も同様アルバムからのカットだがこれはシンシアのお気に入りだったらしい。1978年にリリースされた山口百恵のシングル「乙女座宮」が連想させられるメロディライン。次の

          元祖アイドルからの、音故知新

          元祖アイドルからの、音故知新

          シンシア 1972年 デビュー2年目。この年、3枚のシングルがリリースされた。ところが、アルバムは4枚もリリースされている。これは前年同様、アルバム収録曲の半分が、ポップスのカヴァーで構成されている為だった。原曲の英語の歌詞でも流暢に歌いこなす高い歌唱力、聴き直す毎に只々圧倒させられる。アルバムの中の1枚は、全ナンバーが筒美京平作品というコンセプトで、シンシアが他の歌手のナンバーをカヴァーしている。1968年に設立されたCBSソニーは、この年、シンシアに続きジャニーズ事務所

          元祖アイドルからの、音故知新

          元祖アイドルからの、音故知新

          シンシア 序章 あの頃、茶の間のテレビから流れていた歌謡曲。2016年にリリースされた元祖アイドル、シンシアの「南沙織シングルコレクション」に収録された31曲を聴き直してみる。初期から中期のナンバーは、歌詞・メロディー共にソラで歌える。自分にとってこの頃聞いたナンバーは、自分の原風景であると改めて実感させられる。これからシンシアが歌ったナンバーを年代順に並べ聴き考え何かを発見するノスタルジックな旅に出かけてみたい。茶の間のテレビの機能やアナログの放送はあの頃から大分変化した

          元祖アイドルからの、音故知新

          続・男はつらいよ

          1969(昭和44)年8月、映画「男はつらいよ」第一話が公開された。前年にフジテレビで放送が開始された同名のドラマが4月に終了し、その後、映画化された作品だった。テレビ版では、渥美清が主役を演じ計26話が制作された。最終回で寅次郎がハブ狩りで一儲けしようと奄美大島に出かけるが、ハブに噛まれて死んでしまう結末に視聴者からの抗議の電話が殺到したという。 数年前にDVD化された映画の第一話を見た。当時の江戸川の土手を背景に歩く寅さんのシーンが、山本直純が作曲した主題歌に合わせて始

          続・男はつらいよ

          マック・ザ・ナイフ

          1977(昭和52)年6月、クールス・ロカビリークラブのアルバム『クールス・ロカビリークラブ』がリリースされた。キャロルの親衛隊として登場したクールスは、暴力的で且つお洒落なルックス、暴走族が社会問題となる時代を背景にバイクに跨る反社会性は、ツッパリにとっては兄貴的存在となっていた。そんなカリスマ達が奏でるロックンロールのノリは、カッコイイ歌詞も含め共感を呼んだ。それぞれ個性的なメンバーの中で、当時から注目していたジェームス藤木。氏がリードボーカルをとる「マック・ザ・ナイフ」

          マック・ザ・ナイフ

          「ビー・マイ・ベイビー(Be My Baby)」

          2020(令和2)年10月、アメリカの女優ゼンデイヤ(Zendaya)が、ザ・ロネッツ(The Ronettes)のロニー・スペクター(Ronnie Spector)の伝記映画に出演することが報じられた。1996(平成8)年9月、カリフォルニア州オークランドで生まれた彼女は、そのルーツをアフリカに持つ。本名のそのファーストネームは、ジンバブエのショナ語で「謝意の表明」を意味する。ふと思い起こされたファイバリットナンバーの「Be My Baby」。オールディーズとして認識してい

          「ビー・マイ・ベイビー(Be My Baby)」

          セクシー・バス・ストップ

          1976(昭和51)年3月、Dr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレスのシングル「セクシー・バス・ストップ」がリリースされた。このインスト曲に歌詞がついた浅野ゆうこがカヴァーしたシングルが、翌月にリリースされる。当時、テレビで歌う彼女の姿は今でも記憶に残る。それから長い間ずっと、このナンバーは洋楽のオリジナルで、ニッポン語がつけられた輸入ポップスと思っていた。しかし、ひょんなことからそうではない事を知った。作曲者としてクレジットされたJack Diamondこと筒美京平が、当

          セクシー・バス・ストップ