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「ビー・マイ・ベイビー(Be My Baby)」

2020(令和2)年10月、アメリカの女優ゼンデイヤ(Zendaya)が、ザ・ロネッツ(The Ronettes)のロニー・スペクター(Ronnie Spector)の伝記映画に出演することが報じられた。1996(平成8)年9月、カリフォルニア州オークランドで生まれた彼女は、そのルーツをアフリカに持つ。本名のそのファーストネームは、ジンバブエのショナ語で「謝意の表明」を意味する。ふと思い起こされたファイバリットナンバーの「Be My Baby」。オールディーズとして認識していただけのザ・ロネッツだったが、彼女達のその大ヒットナンバーをプロデュースしたのがフィル・スペクター(Harvey Phillip Spector)だったとは知らなかった。

1943(昭和18)年8月、ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれたヴェロニカ・ベネットは、ティーネージャーになると、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ(Frankie Lymon & The Teenagers)にハマる。当時14歳だったフランキーがリードボーカルをとるドゥーワップ・ナンバー「恋は曲者(Why Do Fools Fall in Love)」は、1956(昭和31)年に大ヒットとなった。

ロニーことヴェロニカ(Veronica)は、姉のエステル、従姉妹のネドラを誘いガール・グループを結成する。グループ名は、祖母がドリー・シスターズ(Dolly sisters)と付けるが、その後、ロニー&リレーティヴス(Ronnie & the Relatives)、そして、ザ・ロネッツと改名された。ヴェロニカの愛称ロニーの名前をモジって母親が付けた。3人でクラブ「ペパーミントラウンジ」に繰り出すと、派手に着飾っていたためステージに上げられたことがきっかけで、ダンスグループとして活動を始める。

1961(昭和36)年、コロンビアピクチャーズ傘下のコルピックス(Colpix)レコードにスカウトされると、3人はレコードデビューを果たす。しかし、ヒットには恵まれなかった。エステルが、ダメ元で音楽プロデューサーだったフィル・スペクターのプロダクションに連絡したところ、面会を承諾されオーディションを受ける。そこで、フィルがロニーの声に興味を持ち、ザ・ロネッツはフィレス(フィルとレスター・シルが設立、レーベル名は二人の名前 Phil + Les からPhilles)レコードと契約を交わすことになる。

1963(昭和38)年8月、フィレスレコードからシングル「ビー・マイ・ベイビー(Be My Baby)」がリリースされた。10月にはビルボードチャートで最高2位を記録した。12月には漣健児により「私のベイビー」と和製ポップス化され日本でもリリース、弘田三枝子と伊東ゆかりそれぞれが歌った。ザ・ロネッツは、その後も「ベイビー・アイ・ラブ・ユー(Baby, I Love You)」「恋の雨音(Walking in the Rain)」などリリースしヒットを記録したがやがて活動休止に入る。1966(昭和41)年夏、ザ・ビートルズの最後のコンサートツアーの前座として北米ツアーを周るころには、ロニーとフィルはお互いにマイ・ベイビーと呼び合う間柄になり、1968(昭和43)年に結婚をする。1970(昭和45)年、フィルのプロデュースによるザ・ビートルズ解散後のアルバム「レット・イット・ビー(Let It Be)」がリリースされる。

1940(昭和15)年12月、ロニーと同じニューヨーク市に生まれたフィル・スペクターは、その後、カリフォルニア州ロサンゼルスに移住する。10代の頃から音楽活動を始める、マーシャル・リーブ、アネット・クレインバードとグループを結成する。グループ名は、エルヴィス・プレスリー(Elvis Aron Presley)のヒットナンバーから「ザ・テディ・ベアーズ」と名付けられた。1959(昭和34)年にリリースした「To know him is to love him」がフィルの初ヒットとなった。

“ウォール・オブ・サウンド”と称されるフィルの代表曲「Be My Baby」を改めて聴いてみる。大勢のスタジオ・ミュージシャンを起用し、独特の音響を持つゴールド・スター・スタジオで一発録音で作られた重厚なサウンドは、当時としては斬新なものだった。その繊細な音作りの作業は、フィルをリスペクトしていた大滝詠一を想起させる。1981(昭和56)年10月にリリースされたナイアガラ・トライアングルのシングル「A面で恋をして」と「Be My Baby」が何故か重なって聴こえてくる。

曲を書いたジェフ・バリー(Jeff Barry)とエリー・グリニッチ(Eleanor Louise "Ellie" Greenwich)は、フィルと同様ニューヨーク市ブロンクスの出身だった。ジェフとエリーは遠縁でもあり、ジェフが離婚すると、こちらも互いに「ビー・マイ・ベイビー」と言い合う間柄となり、1962(昭和37)年10月に結婚してしまう。この年、エリーはニューヨーク市マンハッタン区49丁目通り、ブロードウェイ1619番地のオフィスビルに足を運んだ。そこで、運命の機会が待ち受けていた。「ブリル・ビルディング(Brill Building)」と呼ばれたこのビルには、最盛期に165の音楽会社が入居し、出版・印刷・デモ作り・レコードの宣伝・ラジオのプロモーターとの契約がワンストップで出来た。ビルとその周辺のミュージシャンが作る音楽は「ブリル・ビルディング・サウンド」と呼ばれ、1950年代後半から1960年代末まで流行した。その日、エリーが通された部屋は、売れっ子作家「リーバーとストーラー」の部屋で、そこでピアノを弾いているエリーの才能を見出したのが、ジェリー・リーバー(Jerome "Jerry" Leiber)だった。

1956(昭和31)年7月、エリヴィスがレコーディングして大ヒット曲となった「ハウンド・ドッグ」がリリースされた。1953(昭和28)年、R&B歌手“ビッグ・ママ"・ソーントン(Willie Mae "Big Mama" Thornton)のために書かれたこの曲を作ったのがジェリー・リーバーとマイク・ストーラー(Mike Stoller)のコンビだった。1933(昭和8)年4月、メリーランド州ボルチモアに生まれたジェリーと、同年3月、ニューヨーク州ロングアイランドに生まれたマイクは、1950(昭和25)年にカリフォルニア州ロサンゼルスで出会い、二人で作曲活動を開始する。
1953(昭和28)年、彼等の師匠レスター・シルとスパーク・レコード設立する。1960年代初頭、リーバー=ストーラーの下でスタッフとして働いたのがフィルだった。

2007(平成19年)年3月、フィルが殺人事件で起訴され保釈されている間に、ザ・ロネッツは「ロックの殿堂」入りを果たす。1973(昭和48)年に離婚したロニーは、ロックの殿堂入りにノミネートされても、理事会員であるフィルから妨害を受けていたとされている。ニューヨークのウォルドルフ=アストリアでセレモニーに出席したロニーとネドラは「ビー・マイ・ベイビー」を披露した。この授賞式でプレゼンターを務めたのは、彼女達の長年のファンを自任するキース・リチャーズ(Keith Richards)だった。

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