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弟くんは自閉症 1【エッセイ】

弟くんが一人いる。
彼は生まれ持っての自閉症である。
知能や言葉の発達の遅れをともなう「カナー症候群」というやつで、中年になった今をもって2、3歳児程度の知能しかない。

言葉も単語レベル。
通常は2語をつなげて話す程度。

「リモコン、とって」とか

「セブンイレブン、いこーね」などなど。

弟くんとは年子だ。
だから私が物心ついた時には、弟くんにはすでに自閉症児の診断が下っていて、障害者手帳*1をもらっていた。

両親や祖父母には、それなりの葛藤があったのかもしれないけど、私にとっては「我が弟は自閉症」というのが自然体、至極当然のことだった。

北関東のいなかだったからか、近所や親戚から後ろ指を指されたり、陰口を叩かれた記憶もない。
いなか(特に農家・元農家の家)というのは、確かに了見が狭いところもあるが、生老病死に対して実にドライでリアリスティックな考え方をするあまり、変に懐が深くなることもある。

「障害をもった子が生まれるんのは、まあ仕方ねえし、そういう子は長くは生きられぇもんだしな」
ジジババはこういう会話を開けっぴろげにするので、ちょっと驚くのだが。
まあ、流石に令和の今となっては、ここまであけすけに語られることはないかも知れない。

そんなわだかまりのない環境で育ったのが奏功したのか、私は弟くんの障害について、こいつは大変だと苦労したことはあっても、深刻な悩みを抱えたことは幸いにして一度もない*2。

弟くんは自閉症。
私にはこれ以外の宇宙は存在しない。

私は小説を書いている人間だけど、これまで弟くんのことを文章にしたことはなかったし、そういう欲求もなかった*3。
世間にとっては特殊かもしれないが、私にとってはあまりにもフツウすぎることだったからだと思う。
確かに話のネタにはなるが、自分自身にある空洞や喪失、その他諸々の「何か埋めておかなければいけないもの」というポジションにはなかったからだ。
弟くんは、どちらかというと肺や心臓のように、私自身にエネルギーを巡らせるポンプのような存在なのだと思う。


でも少し潮目が変わってきた。
弟くんのことを、弟くんとのことを何か書き留めておいたほうがいいかもよという気がしている。そこまで差し迫ったことではないにしても。

理由はよく分からないのだが、もしかすると去年祖母が亡くなったのと関係しているかも知れない。
父や祖父は随分前に他界しているので、家族がまた一人いなくなって、弟くんのことを語れるのが、母と私の二人の間だけになってしまった。

いずれは母もいなくなるわけだが、弟くんは自分自身のことを話せないから、そうなると私は弟くんの存在や思い出を私一人で語り、「立証」しなければいけなくなる。おかしな言い方かもしれないが。
でもそれは私一人の「妄想」と何が違うのだろう? 証を立てる人がいなければ、それは虚しい一人遊びと変わらないじゃないか。
共有する相手がいなくなったら、記憶は揮発するのだ。それがどんなに自明であろうと、宇宙と等しかろうと。

そんなメカニズムが働いて、せめて文章という、もう一人の私に荷物を半分持ってもらおうとしているのかも知れない。

これから気が向いた時、思い立った時に、ゆるく書いていこう。
いや、やっぱり書く必要ないな、と思い直すかもしれないけれど。

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*1 この手帳があるかないかが、社会的に障害者であるかどうかの境界線となる。一般生活への適応が難しい〈重めの子〉でも、仮に保護者が手帳を受け取らなかったら、その子は健常者としての人生を歩むことになる。
知的障害児の場合、数年に一度、障害の程度を判定するテストがあり、大学病院の先生達を前にした面接が行われる。障害の程度によって保障の「手厚さ」が変わるため、保護者はこの日だけは子どもにおやつを与えないなど、あえて子の機嫌を損なうような行動を取る。いや、そういう夢を見た。

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*2 あくまでも私の場合においての話。n=1の話である。
差別や心ない言葉を投げかけられることもある。
例え周りに悪感情がなくても、素っ裸になって大便がついたままの尻で公衆の面前を走り回られ、情けない思いをすることもある。
他人だったら理解して許せるが、結婚相手のきょうだいが障害者だというだけで断られることもある。
可愛い知的障害児を取り上げた番組はよく見るが、その子どもがおっさんになってニコニコ笑いながらアンパンマンを楽しむ姿は、多分あまりテレビには映らない。

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*3 厳密に言うと間違い。私は中学生の時に「少年の主張」という作文コンクールで弟くんのことを書き、学校代表の座を獲得。そのまま市の「よい子」として表彰され、内申点を大いに向上させるという現世利益を得た。南無南無。






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