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韓国で生活してみた part2 3(さん)にまつわる話

前回の記事で綴ったように、わたしはひとりで韓国への飛行機に乗って韓国へ入国した。「おや、誘ってくれたサイトウさんはどうした」と思われたかたがいるかどうかは定かではないが、そう、我々は別々の地域で働くことになっていた。
サイトウさんはかの有名な釜山市、わたしはというとそこから車で2時間弱の馬山市(マサン市)という小さな街で働くことになった。釜山は観光などで訪れる人も多いだろうが馬山に行く人はそういないのではないか。そういう意味ではレア体験であったが「サイトウさんそれはないぜ」という想いも多少はあった。

で、馬山である。
わたしの部屋は2階建てのアパートで1階には食堂が入っている建物だった。おそらく飲み屋街の中に存在していた。屋上で洗濯物が干せるような感じになっていて周囲を見渡すことができた。馬山は南に位置しており、市民の雰囲気も含めて「大阪みたいなところ」だという話を生徒さんから聞いていた。

勤め先は語学学校であった。
韓国の人はなかなか勤勉で、朝から習い事や運動などをして仕事に行く人も多いようだ。6時半からの授業が2コマ、あとは16時からの3コマくらいの設定で昼間は特に仕事がなかった。日本語のほかに英語と中国語のクラスが難易度別に設定されていた。職場は韓国人の先生とアメリカ人、カナダ人の先生がいる環境でわたしはアメリカ人、カナダ人の先生と同じアパートに住む「外国人」となった。この外国人グループは生活もほぼ一緒で、サムギョプサルの肉の切り方はアメリカ人のクリスに教わった。まじめに英語を勉強してこなかったためコミュニケーションは適当だったり、クリスの恋人の韓国人女性が日本語も英語も堪能であったため何とかなった。

もっというと韓国語をまるっきり勉強しないで入国した。大学ではもともと中国語と中国文化の専攻だった。
けれども、日本語教師の養成講座で「音声学」という授業があり、韓国語の習得に非常に役に立った。「音声学」は英語の辞書などで見かける音声記号(英語で使われる記号以外にも音声記号はたくさんある)、それのすべてを学んでいくものだった。日本語も音声学的に紐解いてみると「あんぱん」の2つの「ん」の発音記号は前者と後者で異なっているとわかる。非常に興味深かったため、積極的に学び、自身の習慣である日記を当時は音声記号でつけたりしていた。
音声学のレポートは「松田聖子の発音とモノマネの方法の考察」について書いてよい評価を得たり、「ひ」の発音が特別に変化する語彙について「せんひゃくえん!」という語彙を発見して先生をうならせたこともあった。
ハングル自体、非常に優れた文字で、子音と母音の組み合わせがそのまま文字となっているため、暇なときに覚えれば読めるようにはなる。意味が分かるかは別の話だ。

さて、韓国の人はどんな人だろう。
非常に人懐っこいというか親切な様子であった。女友達は腕を組んで歩く。
そして、日本人のわたしにもそうしてくれた。日本語のできる韓国人ばかりが身の回りにいてくれたので甘やかされ韓国語の習得が進まなかった。
中高生から社会人までいろんな人がわたしに興味を持ち、親切にしてくれた。いつも誰かがいてくれて、生活に困ることはなかった。ソウルあたりでは反日のデモがあるなどしていたが、馬山では怖い思いをすることはなかった。痴漢はいた。

そしてみんなもれなくわたしの目について言及してくれた。
「先生の目は大きくてとてもいいですね」「目の色が薄いです」
二重が好評であったが、ゆえに日本人として認識されやすかったかもしれないのだが、馬山に日本人はそんなにいないようだった。統一教(おそらく統一教会)の関係で結婚した女性がわたしの前任者であったが、ネイティブ認定はされていないようだった。

生活や仕事にも慣れてきた秋ごろ、わたしは体調を崩し始めた。
胃の調子が悪くなり、元気もなかった。日本のコーディネーターさんに連絡してみるとこのような返答があった。

「新しい環境では『3』のつく日にちにトラブルが起きやすいといわれています。3日、30日、3か月、これを乗り越えられれば良いのだけれど」

ちょうど3か月に差し掛かったところであったため「なるほど」と思った。
日本語ができる同僚に頼んで総合病院に連れて行ってもらい自分の顔より大きい瓶に入った点滴をしたり、個人病院でお尻に注射をされたりしたがあまり回復しなかったため、精神科へ行った。そこでもらった睡眠薬と胃薬がよく効いて憑き物が落ちたように元気になった。眠れていないことが原因だったことに気が付いていなかった。

3のトラブルを乗り越え、どうにか生活はできていた。というよりそこそこ楽しんでいた。「食堂」という名の定食屋があちこちにあって、そこへひとりで入り、キムチチゲ定食を注文しまくっていた。どこもいろんなおかずがあって美味しかった。店を出るまで日本人だとバレないようにふるまうことも練習していた。たまに店のおばさんに話しかけられることはあったが、聞き返してなんとなく会話に見当をつけ「目のことをほめてくれてるな」とわかれば「ありがとう」くらいは返せた。
週に一度はサムゲタンのおいしいお店に通っていた。「先生、韓国人でもそんなにたくさん食べないよ」という頻度であった。1万ウォンだったと思う。給料が月100万ウォンだったので特に高価だとも思っていなかった。
当時のレートでは7~8万円だったと思うが生活には全然困らなかった。
慶州の寺への観光やよく知らない島でのバーベキューや映画、いろんなところに連れて行ってもらった。

北朝鮮のことがわかる博物館にも連れて行ってもらった。
その運転をしてもらいつつ、道幅が広くて車線がいくつもある直線道路は戦争の時に滑走路になるものだと教わった時には「戦争が身近な国ってこうなっているのか」と考えたり、韓国の人から北朝鮮について教わるのもなかなかないことだなあと感じていた。
とにかく屈託なく周りの人たちはわたしに様々な施しをしてくれたと思う。
自分の受け持つクラスでもこれから軍隊へ行く男性、それが終わった男性などいろいろいたし、ちょうど軍隊にいる途中の人も遊びに来ていた。軍隊の帽子をかぶせてくれたので写真を撮った記憶もある。
国レベルではいろんな思想があると思うが、個人レベルではそんなもんだと思っていたし、何より、戦争が起きてこの親しい人たちが戦争に駆り出されてしまうことがないよう祈っていた。

とりとめもなく書いてしまった、明日から6月になるが新しい環境に飛び込む人は少なそうだ。もしいらっしゃったら3の周期に気を付けて乗り越えていただきたい。

韓国生活3か月を過ぎ、翌年わたしのクラスに興味深い3人の生徒が現れることになる。


(次回が最終回です)

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