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【掌編小説】 HOLY GROUND


 あの時着ていた服、あの時聴こえた音楽、あの人と話した物語。身の回りのあらゆるものに意味が付随していたことに気がつくのは、後になってからのようだ。

 三年間勤めた仕事を辞め、残りの有給休暇とご褒美を添えてたっぷりお休みをつくり、私は一人旅行に来ていた。憧れのニューヨークのカフェで、非日常を溶かしたコーヒーを飲みながら、これが私の日常というフリをして、この場所が舞台の小説を読んでいる。

「カポーティですね、ティファニーで朝食を」
 隣から突然の日本語で話しかけられ、驚きより一歩先に違和感がやってきた。顔を上げると歳の近そうな男性が、私の手元を覗き込んでいた。
「ずいぶん読み込んだ本みたいですね」
 カバーをつけていない文庫本を見て彼は言った。通しでは五回以上読んでいると思います、と私は答えた。

「映画よりも原作の方が好きです、僕は」
「私もです。オードリー・ヘップバーンが演じるホリーは素敵だけれど、恋愛映画になってしまって」
「映画にするには面倒な時代だったんですよ、色々と。小説の方はどう思いますか」
「小説の方は恋愛という枠じゃなくて何と言うか、二人の間には好意と信頼があって、お互いを助け合うんです」
 そう伝えると彼は、納得したように小さく頷きながら視線を正面に戻し、紙コップの飲み物を啜った。彼は映画の勉強のために、こちらの大学院に通っていると言う。私は旅行中であることを伝えた。

 彼がまた、本に話題を戻した。
「ホリーのような人は好きですか?」
「好きですね。憧れもするし、可哀想だとも思うし、彼女の中に自分を見つけることもできます」

 少しの沈黙。彼の口角が少し上がるのが見えた。「分かります。僕も、真っ直ぐにねじ曲がっている人は好きです」
「真っ直ぐにねじ曲がった人は好きです」私は彼の言葉をそのまま繰り返した。どこかあたたかい言葉だった。
「香水瓶を飲み干してしまうような人です、カポーティは」
「それは比喩ですか」
「比喩ではないです」彼が笑いながら言う。「初めての会話にしてはおかしいですよね、すみません」
「おかしなことって好きですよ。早く進む時計とか、逆立ちする猫とか」
「それは比喩ですか」
「比喩ですね」そう返すと二人で笑った。

 それから夕食に誘われた。「もしその気があったら、今夜六時にこの店の前で」
 そう言うと彼は立ち上がり、飲みかけの紙カップとノートパソコンと、ハードカバーの本を持って、若い店員と一言ずつ言葉を交わして店を出て行った。互いに向けられた笑顔を見た時、胸のあたりが”ざわり”と動いたのを感じて、私は今この人に恋したのだと知った。

 待ち合わせには、六時きっかりに着くようにした。早くもなく、遅れもせず。彼は既に待っていて、三軒前で私を見つけると手のひらをこちらに向けて私を止まらせ、早足で歩いてきた。

 食事をして(彼の馴染みのバーガー店)、カフェかバーかどちらが良いか訊かれて、カフェと答えて、そこで二時間ほど話したあと彼がやっぱり酒を飲みたいと言って、結局は彼のアパートに行くことになった。その頃には、かなりお互いを知れた気がした(初日にしてはということだけれど)。私が話すと、彼はもう知っているような感じで、会話をどんどん進めていった。

 ベッドに座ってマグカップでワインを飲み、話が途切れた時にお互いに5センチくらい近づいて、自然と寝転んだら、彼が私の上にきて、そのままキスをした。
 彼の部屋は一階で、私たちは地上から最も近いところにいた。それでいてベッドごと天まで昇っているような、街を空から眺めているような、そんな気分だった。「ここの壁、すごく薄いんだよね」と彼が困った笑顔で言うので一瞬恥ずかしくなったけれど、部屋の外に誰がいるかも、何が起こっているかも、時間が止まっていのるか戻っているのかも、すべてが意識の外にあった。その瞬間は、雑音が消えてしまうほど夢中で、この街は私たちだけのものと思えるほどの万能感を手にしていた。

「旅行に来て、こんなことになると思わなかった」と私が言うと、「僕も、誘うつもりで声をかけたんじゃなかったんだよ」と彼が言う。
「じゃあどういうつもりだったの?」
「店員の子に”Have a nice day”って言われたからさ、良い一日にしようと思ったんだ。でもそうするための予定なんて何もなかったから、声をかけたんだよ」
「いつもそういうことしてるの?」
「隣の人に声をかけるまではね、時々。でもわざわざもう一度待ち合わせして、夕食や家に誘うことはしないよ」
 彼はあくびをしながら続ける。「君に興味を持ったんだ」

 翌日、彼は授業にでて、私はあと三日泊まるつもりだったホテルの部屋をチェックアウトした。旅先だったから大胆になれたのかもしれないけれど、これが自然というか、これ以外にないような気がした。二週間の滞在予定を倍にした。
 
 最後の日。彼との時間はまだ二十六時間残っているのに、朝から私は憂うつだった。もうすぐ離れると思うと寂しくて、彼の言ったことに笑わないでいると、「君はきっと、幸せになるのが下手だね」と言われた。「青い芝生の上で澄んだ水を飲みながら、嵐がくるのを恐れてる」
「予報が外れたら良いのにね」と言うと、彼はとても困った顔をした。


「四ヶ月後に会いに行くよ」
 お別れまで十時間を切ったとき、ベッドの中で唐突に彼は言った。
「院を修了したら、日本に戻る。日本で経験を積んでいった方が良いと思うんだ」
「本当に?どうして早く言ってくれなかったの?」
「この瞬間まで迷ってたから。喜んでくれると思ったんだけど」
「喜んでるよ、嬉しいよ。でもその前にあった寂しさが大きすぎてまだ胸に残ってる感じなの」ため息がでた。「幸せになるのが下手だね」彼の言葉を借りて言った。その通りだった。

 日本までのフライトはあっという間だった。電車を乗り継いで帰宅する。スーツケースがかなり重く感じた。当たり前だけれど自分の部屋は二週間前と変わっていなくて、死者の部屋を見ているようだった。出発の朝まで着ていたパジャマもそのままだった。

 旅先で起こった出来事がすべて夢のような気がして、しばらく天井を眺めていたところで彼からのメッセージを受け取った。無事に着いたことを、桜の写真を添えて伝えた。

 新しい仕事は楽しいとは言えなかったけれど、特に文句もなかった。折り返しの折り返しでやっと繋がる電話でおはようとおやすみを交換する毎日は、もどかしくも幸福だった。“会いたくてたまらない”と“会えなくても幸せ“の感情の周期を三回くらい繰り返し、ちょうど慣れてきた頃、それが続かないことを知った。

「こっちでの仕事を紹介されたんだ」と電話口で彼は言った。
 これはかなり恵まれた機会で、彼の将来にどれだけ望ましい仕事なのかを言い訳のように語った。彼を責める気持ちは一ミリもなかったし、嬉しい気持ちの方が圧倒的に勝っていた。彼にそれを伝えると、緊張は少しだけ緩んで、無邪気に声を出して一緒に喜んだ。
 日本にいつ戻るか分からない、戻らないかもしれない。私は彼を引き留めなかったし、彼も私を連れて行こうとしなかった。そのような提案はすべきでないと、お互いに約束していたように。私たちは、あらゆる物事の責任を担うには若すぎたし、向こう見ずな決断をするには歳をとりすぎていた。そして“いつか“会える日を待つような二人でもなかった。

 彼との電話が終わったあと、はじめに出た言葉は「あーあ」だった。別れは蛍光灯が切れるように、自然なものに思えた。上手くいかないことは、始めから感じていたのに、私は、私たちは、さほど持ち合わせていない楽観性を最大限に引き出して、煌めく今だけを見ていた。未来なんて分からないけれど、今がズルズルと続いていけば良いと思っていた。別れがきて(別れの方からやってきたのだ)、サイズの合わない靴を脱いだ時のような安堵感もどこかにあった。現実に引き戻されたけれど、彼を失ったことよりも、彼と共有した時間で得られたものの方が遥かに大きかった。

 一度、真夜中に電話をかけたことがある。寂しくて寂しすぎて眠れない夜だった。声が聞きたくて、でもそうすべきではないと思いながらスマホを開いていたら、うっかり通話アイコンをタップしてしまった。彼は電話に出なかった。そして折り返しもなければメッセージもくれなかった。そのせいで、私はひどく傷ついた。会えなくなってもお互いを大切に想っているだろうという幻想は、宙に浮かんで、行く場所もなく漂って、その一部は落胆や怒りに変わった。人に対して抱く落胆や怒りやそういった類の感情というのは、その要因の半分は自分にあるというのが、大人になってから私が学んだことのひとつだった。姿を変えてもやはり行き場のない感情たちは、スカスカの部屋の中で夜が過ぎるのを待つしかなかった。

 アパートの二階の部屋から、駐車場を見下ろす。水道水を沸かして淹れたコーヒーと、スマホから流れるお気に入りの音楽。終わってしまうと、輝いていた思い出が、すべて古く安っぽく思えてしまう。
 しかし、この寂しさを埋めるのが彼との思い出なのだから不思議だ。私の名前を呼ぶ彼の声を思い出す度に、笑みが溢れてしまうほど。前に進もうと決意するのだけれど、決まってその夜には彼との夢を見る。夢の中では優しい眼差しで、私の涙を指で拭ってくれる。


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私は踊るわ、二人の物語に捧げるの
今夜、あなたもこの部屋にいるみたいに

でもあなたと一緒じゃなきゃ、踊っていたくない

私たちがいたあの場所は、聖地だった


#音楽をもとに小説を書いたら



ここまで降りてきてくださって、ありがとうございます。優しい君が、素敵な1日/夜を過ごされますように。