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Cafe SARI . 15 / 白いコットンシャツ

ここ数年に比べて今年は少なかった何度目かのゲリラ豪雨が地上に篭ったヒートアイランドの熱を勢いよく洗い流した夕刻、次の章へとページを捲るように季節が変わった。

「あ、秋が来た」

沙璃が一年の中で一番好きな季節。ジリジリと照りつける眩しい太陽の日差しに数ヶ月間耐え続けたのちにようやく訪れる、心がほっと落ち着くその瞬間が来た。窓を開けるとまるでその知らせを届けるかのように、少しひんやりとした北風が半袖の肌に心地よい。

今年の秋はどんなお洒落を楽しもうかしら……。

沙璃がこの季節が一番好きな理由は、ファッションが他のどの季節よりも自由に楽しめるからだ。防寒のための重ね着も要らず、冷房の冷えや汗をかく心配もない。最も気温に左右されずに着るものを選べるシーズン。気温が落ち着いていて暑くも寒くもないこの季節、洋服の素材を気にせず好きなファッションを存分に楽しめる秋。

しかしそうは言っても店に出る時の格好にはある程度の制限がある。あまりにも華美では仕事がしづらいし、料理をする以上、動きやすく清潔であることが第一条件だ。沙璃は仕事着として、自分の中での定番を決めていた。それは白いコットンシャツだった。愛用している黒いギャルソンエプロンとも相性抜群だと思っている。

しかし単に白シャツと言ってもデザインは様々で、学生の制服のようなものではあまりにも味気ない。大人のこだわりを持って、上質な素材とディテールのデザインが凝ったものを求めてショップを探訪する。

沙璃はクローゼットの中から最近手に入れたこの秋一番のお気に入りを選び出した。真っ白で張りのあるコットンのシャツブラウス。左袖と身頃の右胸にカットワークでオーガンジーが嵌め込んであり凝った刺繍が施されている。カットワークの部分が透けて肌が少しだけ見えるところがセクシーで、立てて着られるシャープな襟元とのコントラストに大人の色気と余裕を感じさせる逸品だ。沙璃は買い物途中に立ち寄ったブティックでトルソーに着せてあったそれを一目で気に入った。値段を見て予想の2倍以上もすることに一瞬驚いたが躊躇はしない。一目惚れをした服を買ってこれまで後悔したことは一度もなかった。反対に、一目惚れしたけれど値段で躊躇し買わなかった時、後で必ず思い出して再度出向いた時には既に完売していて臍を噛むのだ。なぜあの時買わなかったのだろう。あれを買えないのならもう何も買いたくない。たとえ似たようなものを探したとしても、決して満足はいかないどころか、もっと良いものをと更に何枚も買い足して、結局最初に躊躇した金額をはるかに超えてしまうのだ。しかもどれも中途半端に妥協した代物ばかりがクローゼットに増えていく。若い頃はそんな失敗を何度も繰り返した経験から、沙璃は値段で躊躇するものほど、自分にとっての価値を見出して購入すると決めているのだった。

一目惚れした真新しい白いコットンシャツに身を包み、気分も新たに店に向かう。今夜はきっと素敵な出会いがありそうな予感がする。沙璃のこういう時の直感は必ず当たるのだ。


今夜は何を作ろうか。秋の気配が濃厚な、涼しく澄んだ空気に合う料理と飲み物を考える。さつまいもを使ったミネストローネ。そしてベーコンとカボチャとキノコのグラタン。カクテルは柚子を絞ったジントニックや、スパイスやシナモンを効かせた温かいグリューワインなんていいかもしれない。沙璃は深まる秋に向けて心を躍らせながら、手際よく下拵えをしていった。

後ろではビル・エヴァンスの『Soirée』が流れている。哀愁にも似た切なさが漂うこの曲は去りゆく夏を惜しむかのような、戻らない時の流れへのノスタルジーを感じさせる。ポエティックに囁くようなエレクトリックピアノの響きが心を揺さぶる沙璃の大のお気に入りで、ビルの中でも一目惚れならぬ一聴き惚れをしたナンバーだ。


料理の準備もすっかり整った。開店して30分ほど過ぎた頃、一人目の客がドアを開けた。

見覚えのある姿に目を凝らす。えっと、どなただったか。沙璃は頭の中の顧客リストを必死で検索しながら声をかけた。

「こんばんは。いらっしゃいませ」

「沙璃さん、お久しぶり!お元気でした?」

ハッとして我に返る。まさかまさか。あの……杏子さん?

「えぇ!?ごめんなさい、一瞬分からなかったです。杏子さん、こんばんは。ご無沙汰でしたね」

うふふと恥じらいながら微笑む杏子さんの来店はかれこれ半年振りだろうか。以前とはまるで雰囲気が違っていて、沙璃は我が目を疑った。

確か歳の頃は還暦を過ぎているはず。若い時から多かったという白髪を気にして、以前はショートヘアをまめに染めていたが、カラーリングをやめたのか今どき流行りのグレイヘアに見事にバージョンアップさせ、豊かな毛量を生かすべく大きなウエーブをかけた肩にかかるフェミニンなボブスタイルになっていた。

ヘアスタイルだけではない。杏子さんの雰囲気が以前と全く違うと感じる原因は一体なんなのだろう。沙璃は不思議に思いながらも彼女のこの半年の流れの変化を知りたくてドキドキした。

「随分雰囲気が変わられましたよね。何かあったんですか?」

「えぇ〜、そうお?何かしらねぇ」

杏子さんはその理由を当然知っているといったような、余裕の微笑みを讃えている。

「洋服の趣味が変わられたんですね。以前はほとんどモノトーンだったし、いつもパンツスタイルでしたよね」

今夜の杏子さんは以前とはまるで真逆の雰囲気だ。真っ白のシャツワンピースにこれまで一度も見たことがなかったヒールのパンプスを履いている。オープントゥのつま先には真っ赤なペディキュアが採れたてのさくらんぼのように可愛く並んで艶めいている。香り立つような色っぽさに、沙璃は同じ女性でありながらもつい見惚れてしまうのだった。しかもワンピースはなんと膝上丈ではないか。小さな膝小僧がまるでフランスマダムのように粋なお洒落のアクセントになっている。あぁ、なんて素敵。こんな風に私も歳を重ねたいものだと沙璃はため息を漏らした。

「ハァ〜、杏子さん素敵!」

「何よぉ、恥ずかしいじゃなの。ねぇ沙璃さん、座ってもいいかしら?」

「あ、あぁ!ごめんなさい。どうぞどうぞ!つい見惚れてしまって。杏子さん、こちらに座ってください」

沙璃はカウンターの真ん中の席を勧めた。

「何になさいますか?いつものクラフトビールから?」

「そうねぇ。今夜はちょっと気分を変えて、ミモザをいただこうかしら」

「はい、ただいまお作りしますね!」

沙璃は華奢なフルートグラスにシャンパンとオレンジジュースを同量入れてミモザを作った。こんなことは初めてだ。いつもは必ず大好きなビールを注文する彼女に一体何があったのだろう。

「今夜はね、ここで待ち合わせなの」

美しくマスカラが塗られたまつ毛を伏せ目がちにして杏子さんがつぶやいた言葉で、沙璃は全てを把握した。

そうか、杏子さん恋してるんだ。

間もなく、杏子さんの新しいお連れ合いがここへやってくる。4年前に前の旦那さんと離婚されてからというもの、一人で生きてきた杏子さん。別れは女を強くもするけれど、時には側から見ていてもハラハラするほどとても弱くて儚げに見えた。そんな弱い自分を武装するかのように、杏子さんはいつもモノトーンの服を好んで着ていた。ショートヘアに黒いパンツスタイルで、足元は必ずユニセックスなレースアップシューズ。女性のメンズスタイルってかっこいいなと、沙璃は杏子さんに対していつも憧れの眼差しを向けていた。

それが今夜はどうだ。全く別人のように美しいマダムへと変身した杏子さんに、その心のうちを聞いてみたくて仕方がない。沙璃は新しいパートナーさんが来るであろうその前に、杏子さんと話をする時間があリますようにと心の中で願った。


桜貝のように輝くパールピンクのネイルの指先で優雅にグラスを摘み、杏子さんはミモザを楽しんでいる。目にはエレガントな微笑みを湛えたまま。あぁ、なんて美しいの。

「あのぅ、杏子さん。こんなことを聞くのは野暮だって重々承知してるんですけれど……」

そこまで言うと、杏子さんはグラスに落とした視線を真っ直ぐに沙璃に向けた。その強く輝く瞳に不意に射抜かれてドキリとする。

「私ね、離婚してからずっと、自信がなかったのよね、自分に」

沙璃が問いかける前に、杏子さんは自から話し始めた。

「離婚以来、自分は欠陥人間だと思い込んでいたの。それまで信じていた、たった一人の人からの愛情も受けられない私って、一体なんの価値があるんだろうって。男の人の軽い移り気など、どうということはないとタカを括っていたのよね。でも違った。私の知らないところで、私よりももっと深く繋がり、もっと強い愛情で結びついた二人を目の前にして、私はなす術もなかった。そこに私の入り込む余地など微塵もなかったの」

離婚の原因は以前に聞いて知っていた。前の旦那さんが新しいパートナーを作って出て行ってしまったのだ。杏子さんがここへ来るようになったのも、傷心の心を紛らわす為だったことは言うまでもない。沙璃はCafe SARIのオープン当初、初めてここを訪れた時の杏子さんの様子を昨日のことのように思い出していた。顔は青白く、覇気のない表情で一人カウンターでビールを何杯も飲んでいた。何度目かの来店時、少しずつ話しかけられるようになってから離婚の経緯を聞かせてくれたのだった。幸いにも仕事が忙しいことが杏子さんの救いとなっていた。沙璃も理由は違うけれど同じ離婚という経験をもつ身として、杏子さんとはいつも深い話になるのだった。半年ほど前から姿が見えなくてどうしているかと気にかけてはいたが、まさかこんな風に変貌した姿で現れるとは夢にも思っていなかった。それはとても嬉しいサプライズだった。


「自分が誰にも必要とされていないって、そう思い込んでいたのよね。人間としても女としても最悪な時期だった」

「あの頃、杏子さんとはいろんな話をしたけれど、正直見ていて辛い時がありました。私は何もしてあげられなかったし、自分自身にも余裕がなかったですから」

「そうよね、沙璃さんも一人になって間もない頃だものね。この CafeSARI をオープンさせたばかりで、とてもキラキラしていて私には眩しかったわ」

「そうですか?自分では必死で、とにかく余裕がありませんでしたよ。ただ話を聞くことしかできなかったし、何もできない自分が情けなかったです」

「いいえ、ここに来れば沙璃さんがいる。そして私のどうしようもない暗い話を淡々とただ聞いてくれる。そう思うことでどれだけ救われたかわからないわ。本当に、あの時期のことは感謝しているの。改めてお礼を言わせてね。ありがとう、沙璃さん」

「そんな……。本当にそう思ってくださるのなら、私も嬉しいです。私はここで皆さんを待つことしかできないし、来てくださった方達に少しでも心が安らげる時間と空間を作れたらいいなって、そう思っているだけですから」

本当にそうだ。ここに足を運んでくれるだけで、どれだけ嬉しいことか。それは簡単なことじゃない。勇気を持ってきてくれる人もいるだろうし、苦労して時間を捻出してきてくれる人もいるだろう。この店のドアを開けてくれる行為が決して当たり前ではないことを、この3年間でたくさん体感してきた。話してみて初めてわかる、人それぞれの事情。それをここへ来て話すことで少しでも軽くなって帰ってくれたらと、そのために沙璃は毎晩美味しいメニューを考え、楽しい時間を過ごすためのお酒を選び、作る。それしかできないし、それしか必要ないこともこの3年間で学んだ。その価値は、受け取ってくれた人それぞれに委ねる。それでいいしそれが沙璃には何より幸せなことだと日々実感していた。


「どこで出逢われたんですか? その、待ち合わせのお方とは」

沙璃は単刀直入に問うた。なんだか不躾に聞いてみたい気持ちがした。

「ふふふ。さぁね。どこだったかしら?」

はぐらかされることにも幸せを感じるなんて、なんだかいいな。沙璃はますます杏子さんを構いたくなってきた。

「ねぇ、杏子さん、そのドレス、とても素敵ですね! 私、白いシャツが大好きなんですけれど、シャツワンピースってすごくいいな。女らしいのに甘過ぎなくて。杏子さんの雰囲気にピッタリですね!」

「ありがとう。これね、私もとても気に入っているの。実はこれ、沙璃さんのイメージで選んだのよ」

「えぇ? 私の?」

「そう。あなたここでいつも真っ白のシャツを着ているでしょ? 私ね、ずっといいなって思ってたの。でも自分には似合わないって諦めてた。真っ白のシャツって自分に自信がないと着こなせないって思うのよ。あの頃の私にはとても無理だったわ。だから私はいつも真っ黒だったでしょ?」

「そうなんですか?意外です。私は反対にいつも杏子さんのモノトーンのスタイルがかっこよくて真似したいけど出来ないなって思ってましたよ。芯があって強くて、ポリシーがないと黒は着こなせないじゃないですか」

「そんなものかしら? 私にとって黒は防御の色なのよ。自分の内面を人に見せたくない、見せられない時に上手く隠してくれる色。強く見せたかったし、黒を着ることでなんとか立っていられたのかもしれないわね」

それぞれの想いがあって選ぶ洋服。私たち女性ってなんて健気で可愛いのだろう。何かに縋りたい気持ちを黒い服で支え、自信を持っていられるように白い服で構える。そうやって日々懸命に生きている。4年前も、半年前も、そして今日も。

「杏子さん、白い服、とっても似合ってます!素敵です!」

「ありがとう。嬉しい」

これまで見たことがないような、晴れやかな笑顔で杏子さんは笑った。

また信じられる人ができた幸せを沙璃も一緒に噛み締めながら、今夜一番お気に入りの白シャツを着てきた自分を心の中で褒め称えた。

たかが服。されど。


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