小説『GRACE✨わたしの推し活①』(note1000本投稿記念)
仕事帰りの夕飯の買い物途中、肩にかけたバッグの振動に気がついた。スマホを取り出してみると、数ヵ月ぶりに見る成美からのラインだった。
「由香、来週の土曜日空いてる?」
自分のために缶ビール2本と海老とサラダのトルティーヤ、そして息子の宗介の好物であるトンカツ弁当とコーラの入ったカートを人の流れの邪魔にならない場所へと移動して由香はすぐに返信を打った。
「久しぶり!成美は元気してるの?ランチのお誘い?それとも飲みいく?」
これは由香の持論だが、妙齢の女同士の関係性において、親密であればあるほどマメに連絡を取り合ったり頻繁に会ったりはしなくなる。そこには長い年月をかけて育んできた揺るがない信頼と安心感があるからだ。お互いの息子が小学校入学の時に知り合った、いわゆるママ友の成美とは知り合って今年で16年になる。こんなに長い付き合いはこれまでの人生の中でも成美だけだ。
学生時代に仲の良かった友人たちは、結婚と同時に少しずつ疎遠になっていった。お互いの子供が生まれて数年間は年に一度の年賀状などを通じてかろうじて繋がってはいたが、いつしかSNSの時代になって紙の便りがなくなり、そういった時代の友人たちは自然とフェードアウトするように付き合いがなくなった。
45年も生きていると幾度かの人生のターニングポイントというものを経験するが、振り返ってみると由香もそれなりに山あり谷ありの人生だった。よくここまで頑張ってきたよね、お疲れさんとたまに自分を褒め称えたくもなる。
10年前に離婚した当時は心身ともに荒んで奈落の底に突き落とされたが、その人生の一番つらい時期に一番側で支えてくれたのは成美だった。何度となく親身になって話を聞いてもらい、救い上げてもらった。これまでの由香の人生において、身内も含めて自分の心の中を全てさらけ出したのは成美だけかもしれない。あの時に成美は単なるママ友からかけがえのない大切な存在へと由香の中で確実に意識が変わった。他にも何人か仲良しのママ友はいたけれど、子供たちが学校を卒業してからは母親同士で会う機会もなくなり、自然とそれらの関係性も淘汰されていった。ただ一人、今まで長く続いている唯一の存在が成美なのだ。
子供を介してのママ友という枠が消えた時、年を重ねるほどにこの先長く付き合っていきたい人としか密な関係性は続かないものだ。特に家庭に入った女性というのは自分のことは二の次になりがちで、一個人としての繋がりを家庭の外側で持続するのは容易なことではない。どうしたって家族のことを一番に考えるし、子供ができれば尚のこと自分は家族あっての存在になるのは自然なことだと由香は思っていた。自分の自由になる時間はほとんどなくなり、一人で外出することもままならない。そのことについて由香はこれまで何の疑問も不満も持ったことはない。しかしそんな中でも成美との関係性は特別で、遠い故郷に住む兄妹よりも確実に深く付き合ってきた人だ。
今では身内のような感覚の彼女を、由香はいつでも信じているしいつでも大好きだしいつでも甘えてきたしいつでも赦してきた。成美のほうもきっとそうだろうと思う。由香が抱える問題を常に寄り添いながら励まし、慰め、時には厳しく意見してくれた。それは単に自分の考えを押し付けるのではなく、常に由香の立場を思いながら最適解をそっと差し出してくれるのだった。そんな成美の言葉はいつも由香の心を強くしてくれた。現在は独り身の由香を気遣い、お互いに一人になったら老後は一緒に暮らそうね、などと真剣だか冗談だか分からない口約束を交わしている。
成美の家族は夫の健次さんと息子がニ人。長男の和明くんは早くに家を出て独立しているので、今は息子と同い年の隆明くんと、介護が必要な彼女の実母の4人暮らしだ。母子家庭で苦労をかけた母親を大事に思う成美は、最期まで自分で看るといい、三年前、母親のためにバリアフリーの家を新築した。
旦那さんとは確か学生時代からの長い付き合いの末に結婚したと聞いている。とても優しい旦那さんに対して成美はいつも強気だ。二人の会話をそばで聞いていると成美の語気の荒さに由香はいつもヒヤヒヤする。でもそれは二人にとってはまるでじゃれあいのような日常のコミュニケーションであり、他人が入る隙などない、いわゆる“犬も食わない”というやつなのだ。喧嘩していると思ったら次の瞬間には「けんちゃん、ビール飲む?」なんて甘い声を出している。由香から言わせると理想的なかわいい夫婦だ。そしてある意味とても羨ましい。
ところが数年前、成美が仕事先に赴任してきた上司と深い関係になったことがあった。由香にだけはこの事を打ち明けておきたいと言って話をしてくれたのだ。
あんなに優しい旦那さんがいるのに何故?と成美を責めたが、成美はその時とても冷静に言った言葉が今も由香の心に残っている。
「由香、夫婦ってさ、家族なんだよね。そこに恋愛感情はないんだよ。私はあの人を人間としてとても尊敬してるし愛してる。唯一無二の存在なの。旦那のことは大切だし家族は大事だよ。でもそれだけじゃ私は満足できない。もっと成長したいし自分の一度きりの人生を愛する人と分かち合いたいんだ」
初めは納得がいかず、別れた方がいいと何度も説得したが成美の気持ちは揺るがなかった。しかし半年後、その最愛の人との関係は思わぬ形であっけなく幕を閉じた。その人に進行性の悪い病気が見つかり、病院に入院してからは一度も会うことも叶わずに終わったのだった。成美は彼との最期のお別れができなかったことを悔やんだが、自分は家族ではないから仕方がないと諦めたように静かに言った。
日常は変わりなく過ぎ、仕事も忙しく気丈にしていた成美だったが、ある晩遅くに電話をかけてきた。
「ごめん、どうしても由香の声を聞きたくなって。やっぱり思い出すと辛くてしんどいよ」
こんな時、どうやって親友を慰めればいいのだろうと由香は途方に暮れながら、成美の泣き言を聞いていた。こんな姿はきっと誰にも見せたことはないだろう。誰にも言えない心の中をこうして声に出すことで成美は自分を慰め、癒しているのだ。
ただ自分の中で消化しきれずに燻っている思いを誰かにわかって欲しかったのだと由香は解釈した。そうやって聞くことで、由香はそれまで自分の中にいた納得のいかない成美を赦し、全てを受け入れたのだった。
あれから数年経つが、その出来事が余計に成美との関係性を太く強いものに変えたと、由香は思っている。
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買い物途中の成美からのラインに、由香はしばらく連絡をしていなかったことを後ろめたく思ったが、一瞬でその空白の時間を忘れさせる感覚に安堵しながら返信を打つ。するとすぐにまた成美からのメッセージが飛んで来た。
「実はね、来週末、仕事の取引先のお店が銀座にオープンするの。そのお披露目パーティーがあるんだけど、由香も一緒にいこう!」
一時期ブームになった “お箸で食べる創作フレンチ“ の人気店、代官山にあるネオ・フレンチレストランのRUDOが第2号店を銀座にオープンしたらしい。7丁目の並木通りのビルの4階にできた店は代官山店よりさらにグレードを上げた内容だという。
RUDOは成美が勤めている横浜にあるワインの輸入会社の卸先で、この店を担当していた成美は関係者だけを招待するプレオープンのパーティーに由香を誘ってくれたのだった。
「でも私、関係者じゃないのに行ってもいいの?」
不安に思う由香が送ったメッセージに既読がつくや否や、成美から電話がかかってきた。
「あぁ、由香?あのね、いいのいいの。レセプションパーティーっていうのはね、仕事絡みの人たちだけじゃなくて、ご近所さんやそのお仲間たちもご挨拶がわりに招待されるの。これからここで商売していく新参者です、そうぞよろしくお見知り置きをってね。だから由香は大きな顔して美味しいものを食べて楽しんでいればいいのよ。きっと特別ないいワインも出るわよ〜。
あぁ、それとね、その店のソムリエがめちゃくちゃいい男なのよ。由香、紹介してあげるね!」
ソムリエの話はともかく、大手を振ってただ楽しめばいいと言う成美の言葉に安堵した由香は、たまには華やかな場所に出るのも悪くないかもしれないとその話に便乗することにした。息子と二人、つましい暮らしをしている今の自分にとって、銀座の高級フレンチなんてそうそう行けるものではない。
✨✨✨
レセプション当日、店に入ると既にたくさんの招待客たちで賑わっていた。社交的で性格の明るい成美はシャンパングラスを片手に客人たちの間を飛び回り、自社ワインの説明をしながら楽しそうに盛り上がっている。知り合いもいない初めての場所が苦手な由香は、とりあえずテーブルに整然と並べられた一番手前のフルートグラスを取り、全体が見渡せる店の隅の方へと移動して大人しく一人佇んでいた。
元々そんなにお酒が飲めるわけではないし成美のようにワインに詳しくもない。由香はたくさん並べられた高級そうなワインや、シルバーのワインクーラーの氷に刺さった美しいシャンパンボトルを見るともなくぼんやりと眺めていた。
なんて書いてあるんだろう?フランス語読めないし。このシャンパン、高いんだろうな。ワイン専門店で買ったら1万円ぐらいするのかな?でもこんな高級店で飲んだら3万近くするかもしれない。あぁ、恐ろしい……
庶民的で身も蓋もない事をぼんやりと考えながら、由香は手にしたグラスの美しく黄金色に泡立つ液体をそっと一口含んだ。
それはこれまで飲んだことのない贅沢な味わいだったが、煌びやかな客人たちと高級な店内の雰囲気に気圧されて、その強すぎる慣れない泡の刺激に少しむせてしまった。
成美にとっては仕事上このような華やかな場所は当たり前に日常の中にあるのだろう。けれど由香にとっては何かのイベントでもない限り縁がない場所だ。今夜はせっかく誘ってもらったのだから、滅多にない贅沢を存分に楽しもう。そう決意した途端、なぜもう少しマシなものを着てこなかったのかと、由香は今夜の服装の選択ミスを強く後悔した。
招待客たちは皆ドレスアップしている。女性たちは鮮やかな色合いのワンピースや肩を大段に出したドレスでいかにもハイソな雰囲気だ。一体その中に何が入るのかと思うほどに小さなバッグはお決まりのアクセサリーのようだ。シンプルで洗練されたリトルブラックドレスも銀座の夜に合っていてとても素敵だ。ヘアメイクもそれぞれ完璧な美しい婦人たちの年の頃は大体が50アップというところだろうか。落ち着いていて場慣れしている大人たち。自分に自信のある大人の女性たちは皆美しく輝いて見える。これまで年を取ることにマイナスのイメージしか持っていなかった由香にとって、それは驚きと共に気持ちが上を向く光景だった。
男性たちは一様にして仕立ての良さが素人目にもはっきりと分かるスーツ姿だ。ビジネスシーンには使えそうもない華やかな柄のネクタイやポケットチーフを上手くあしらい、ワンランク上の装いで非日常感を醸し出している。
高級レストランのレセプションパーティーなど初めての由香はドレスコードがあったら事前に教えてほしいと昨晩成美に尋ねた。しかし成美は「大丈夫よ。私と違って由香はスタイルがいいんだから何だって映えるし普通でいいからね」と言ってくれたが今となってはその気遣いを少し恨んだ。今夜はこのままなるべく目立たぬようにしていたい。
今日の成美はトリートメントの行き届いた艶のある栗色の髪を高い位置で結い上げ、シックな黒のパンツスーツを着ている。新調したと見える上質なシルクの光沢がいかにも仕事のデキる女性といった感じだ。大ぶりのバロックパールのネックレスも日本人特有の正統派な真珠の使い方とはまるで違う。ふくよかで少し陽に焼けた彼女にとてもよく似合っていて、まるでフランスマダムのようにゴージャスだ。
それに対して由香は、今日のために新しい服を買うことはしなかった。もちろん経済的に余裕があればそうしたかったけれど、今日の主役は自分ではないし、成美のお供で行くことに少々気を抜いていたことは否めない。9月に入ってもいまだに猛暑日が続いていることもあり、去年から幾度も袖を通している白のシンプルなコットンジャケットと胸元がレース使いになったノースリーブの紺のワンピースを選んだ。レストラン内ではジャケットを脱ぐことを想定していたけれど、このところエクササイズをサボりがちな二の腕を人目に晒す自信がここへ来て急になくなってしまった。暑くてもジャケットは脱がずにこのままでいようと思い直した由香は、夜の窓ガラスに映る冴えない自分の姿に辟易しつつ、何とはなしに諦めの感情を抱いてぼんやりしていた。
その時、油断しきっていた背後から突然声をかけられた。
「こちらのシャンパーニュはお気に召しましたでしょうか?」
ドキッと心臓が跳ね上がって振り返ると、そこに立っていたのは黒いタキシード姿の若い男性だった。背が高くて見上げるようだ。この人が成美から聞いていた素敵なソムリエだと瞬時にわかった。
「えぇ、とても美味しいです。素敵なお店ですね。オープンおめでとうございます」
「ありがとうございます。私はソムリエをしております野崎と申します。今夜はご来店くださいましてありがとうございます」
真っ直ぐに見つめるその瞳に。そこに佇む美しい立ち姿に。やわらかく響く低音の声に。私はつまり、一瞬でやられた。
「あ、はい、ありがとうございます」
その先の言葉が出てこない。何故こんなに緊張しているのだ。
由香は焦る気持ちが顔に出ないようにと微笑んだが、その笑顔は相手には微妙にひきつって見えているに違いない。
「あの、大変失礼ですが、お名刺いただいておりましたでしょうか。もしかするとまだではないかと……」
「あ、あ、すみません。わたし、関係者ではありません。今日は友人の波多野成美の付き添いでお邪魔しました」
慌てて早口で返事をして余計に恥ずかしくなり、顔に血がのぼるのが自分でもはっきりとわかった。汗が額にじわりと湧き上がる。
「あぁ、なるほど。そうでしたか。それは重ねて失礼をいたしました。いえ、確か初見のお客様だと思いながら自分の記憶に自信がなくてちょっと焦っていました。よかったです。改めまして今後ともどうぞよろしくお願いします」
そう言ってスマートに名刺を差し出した。
「あ、すみません。恐れ入ります。ありがとうございます」
由香は持っていたグラスをテーブルに置き、両手で恭しく受け取ると野崎は嬉しそうに微笑んだ。
うわっ、笑顔もヤバい。眩しい。
「ワインはお好きですか?もしよければご提案させてきただきますのでお好みのものがあればおっしゃってください」
うお、そんなこと言われても自分の好みも何もわかる訳がない。外食の時だって大抵メニューの中で一番上に書いてあるグラス7〜800円のハウスワインしか頼んだことがないのだから。
焦った由香は言い訳の言葉を考えた。
「えっと、いえそんな、わたし全然わからないので。こんな素敵なお店には普段は縁のない生活してますから。あはは、ワインなんて全く。いつもビールかハイボール。それかレモンサワーね。あ、すみません。ソムリエさんにそんな失礼なこと言っちゃダメですよね。えへへ」
あぁ、ばか。何言ってんだわたしは。焦って余計なおしゃべりを、みっともない。
「いいですね、ビールもハイボールも。私もレモンサワー、大好きです」
ニコッと笑ったソムリエの口元に真っ白な八重歯が除いた。ズキュン。
ダメだ。重症だ。もう帰りたい。
先ほど飲んだシャンパンが速まった鼓動のせいで一気に全身を駆け巡り、完全に酔いが回ってしまったようだ。泣きそうになって遥か先で歓談を楽しんでいる成美をオロオロと目で追った。成美たすけて。由香は心の中で叫ぶが成美は一向に気がつかない。
「今日はせっかく来ていただいたので、私のお勧めをご賞味頂けますか?」
八重歯が素敵なソムリエは、大切なものを扱うように美しい所作で白ワインのボトルを見せてくれた。
「こちらはフランスの北アルザス地方のリースリングという品種のワインです。爽やかな柑橘類の果物や桃のような香りを楽しんでいただけると思います」
「あ、はぁ、そうですか。アルザスのリース?はい、いただきます。ありがとうございます」
ワインの産地なんてわかるわけがない。知っている地名はボルドーとブルゴーニュぐらいだ。その違いもわからないしワイン自体、赤と白とロゼとしか認識していない。そういえば最近はオレンジワインなんていうのも流行っていると雑誌で読んだ。オレンジからワインができるのかと成美に聞いたら鼻で笑われたので調べたら、白葡萄を皮ごと潰して発酵させることで果皮に含まれる黄色系の色素が溶け出して琥珀色に近いオレンジ色に見えるのだと知った。もちろんまだ飲んだことはない。
勧められるがままに野崎という素敵なソムリエからワイングラスを受け取り、由香はそっとグラスの口に鼻を近づけた。
ほぉ〜〜、なんというふくよかな香りだ。こんなに芳しいワインなど飲んだことがない。驚いて思わずソムリエの顔を見上げる。
「いい香りでしょう?少しグラスを回してみてください。もっと香りが立ってきますよ」
言われるがままに慎重にグラスを回してみた。そしてもう一度鼻に近づけてみる。確かに先ほどよりも香りが強く立ち昇ってくるのを感じた。そのまま唇をつけて少し口に含む。
爽やかな中にもしっかりと落ち着いた深みを感じる。普段飲んでいるただ飲みやすいだけの薄っぺらな葡萄ジュースのようなワインとは全く別物だ。コクンと飲み込んだ瞬間、鼻に抜ける芳醇な香りに思わずため息が漏れた。
「はぁ、なんていい香り。本当に、桃の香りがしますね。そしてレモンやグレープフルーツのような感じも。甘くないし、とても美味しいです」
「よかったです。ありがとうございます。どうぞ今夜はゆっくり楽しんでいらしてください」
そう言ってソムリエは今味わったばかりの上質なワインよりも数段上の爽やかな笑顔を残し、他の客たちの中へと紛れていった。
なんて素敵な人だろう。若くて颯爽としていいなぁ。今日の収穫はこの特別なワインと素敵なソムリエさんだわ。
人間とはなんと現金な生き物だろう。由香は先ほどまでの少し沈んだ心を一掃してくれた出会いに心ときめかせながら、今日ここに誘ってくれた成美に素直に感謝する自分を滑稽に感じていた。
それからしばらくの間、由香は初めて知る名前のリースなんとかという美味しいワインに舌鼓を打っていると、成美が先ほどの素敵なソムリエと連れ立って近づいて来た。
「あはは!なに一人で出来上がってんのよ、由香。顔真っ赤よ。ねぇ、紹介するね。こちら、ソムリエの野崎亮ニさん。さっきご挨拶は済んでるそうだけど」
「えぇ、野崎さんがこのワインを勧めてくださったの。あまりにも美味しすぎて進んじゃったわ」
「そうでしょう?何せそれは我が社が卸した自慢のワインですからね」
「あ、そうだったわね。失礼しました」
野崎はまた輝く笑顔で八重歯をのぞかせた。
あぁ、困ったな。本当に素敵な笑顔。
「野崎さんたらね、あちらの方は波多野さんのお知り合いと伺いましたが、とても素敵な方ですね。なんておっしゃるから、こうしてお連れしましたわよ。はい、自己紹介!」
なに?また冗談を。成美ってば時々こういうオヤジハラスメントみたいなことを恥ずかしげもなく平気で言うのだ。やめてよ、おばさんをからかうのは。成美は更に5つもおばさんだから分からないのだ。いつもこんなふうにわたしを歳の離れた妹のように扱うけれど、野崎さんからみたらどちらも同じおばさんだよ。
由香は成美に向かって嗜めるように言った。
「なに言ってるのよ、もう。野崎さん困ってるじゃないの」
「あら、そんなことないわよぉ。ほんとにそうおっしゃったんだから。ねぇ、野崎ちゃん!」
あぁ、嫌だ。もう完全に酔っ払いのオヤジだよ。
「はい、ぜひご紹介いただきたくて。お名前を伺ってもよろしいですか?」
由香は先ほど野崎から名刺までもらっておきながら、ぼぉっとなって名乗ることを忘れていた失礼を恥じて、余計に煽られてしまった。
「え?あ、はい。……はい。あの、申し遅れました。わたくし、波多野の友人で芳村由香と申します。よろしくお願いいたします」
ペコリと頭を下げると成美はガハハと豪快に笑って「照れるんじゃないよ!」と由香の肩を勢いよくバシンと叩いた。
「由香さん、ですね。今夜は来てくださって本当にありがとうございます」
野崎の口から発せられた自分の名前を聞いて呆然となった由香は、またもやその素敵すぎる笑顔に目が釘付けになってしまった。そしてこの出会いはもしかするとただ事じゃ済まないかもしれないと、少し不安になるほどの甘やかな胸騒ぎを覚えた。
「他のワインも楽しんでくださいね。お食事はあちらに用意してありますのでぜひワインとご一緒にどうぞ」
野崎はテーブルに並んだ美しい料理の数々を由香に勧め、一礼してまた客人たちの中へと紛れていった。
久しぶりのお酒ですっかり酔ってしまって頭の中がはっきりしない。
非日常の中で突然出くわしたハプニングについていけないで放心していると、成美が耳元で囁いた。
「由香、もうそろそろいいんじゃないの?」
「へ?何のこと」
「あなたね、まだ45なんだよ。壁の花になるには年を取り過ぎているけれど、このまま壁に埋もれていくには勿体無いっての」
「壁に埋もれてた?わたし」
「埋もれてるわよ。さっきから一人で端っこでチビチビ飲んで、爺さんみたいに何やってんのよ」
「ひどいなぁ、爺さんて」
「もっと楽しみなさい、って言ってるの。もう10年経つんだよ。子供だってとっくに成人してるのに、由香はずっと同じ場所にいて動いてないよ」
「そうかしら。でも、仕事は楽しいし他にしたいことなんて別にないんだよね」
由香の言葉に成美は大きく一つため息をついた。
「仕事はいつか辞める時が来るじゃない。私たちもうそんな年頃よ。次の人生に向かって、何か楽しみを見つけないと、気づいた時には何もないってことになるわ。宗介くんだって心配してたわよ」
「え?宗介が?何だって?」
「まぁそれはいいじゃないの。別に大したことじゃないわよ。とにかくね、何か楽しみを見つけなさいっての」
「そうねぇ。成美は何かあるの?」
「もちろんよ。わたしは色々やってるわよ。仕事だけじゃつまらないもの」
「知らなかった。そうなんだ。例えばどんな?」
成美は手にした赤ワインをくるりと回して香りを確かめて頷き、ゆっくりと時間をかけてひと口を味わってから話を続けた。
「興味のあることを片っ端からやってるわ。最近始めたのはパーソナルトレーナー付きのピラティスとボイストレーニング。健康のためにもこれから長く続けられることを常に探すのよ。それとワインを更に深く理解するために本格的にフランス料理も習いたくてね、先日行った恵比寿のフレンチレストランが月一で開催してる料理教室に早速申し込んできたところ」
「へぇ、すごいね。わたしも何か始めたいな」
「いいんじゃない?もっとアンテナ張って、今日みたいに人が集まる席に来た時は自分から声かけたほうがいいわよ。そこでどんな繋がりが生まれるかわからないし。さっきもあちらのお客さんと話をしててね、今度山梨のワイナリーにご一緒する約束してきたの。楽しみだわ〜」
楽しみかぁ。自分にはもうこの先新しい世界などないと思っていた。
でもまだ45。本当は恋だってしたい。成美が言うように、もっと自分のために時間やお金を使ってもいいのかもしれないな。
由香は成美の言葉を聞いて、宗介も母親である自分のこれからを心配していることを知った。成美が今日なぜここへ誘ってくれたのかもようやく合点がいった。
もっと自分と向き合おう。一体わたしは今、何がしたいのだろう。
離婚した10年前、成美に言われた言葉が再び由香の脳裏をよぎった。
「由香、これからは自分の足で歩きなさい」
その言葉の意味をしばらくの間忘れていたことに、由香はいま改めて気がついたのだった。
・・・・・・・・・・
②へ続くわよ〜↓↓↓
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