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1年前は、仕事をしていなかった

自前のMacBookとリモートワーク。
なんだかんだ、叶えてるのが、不思議。


青い空、広い海、対岸には別の県が見える。

海を見渡しながら、言葉を紡ぐのは
いつもより少しスラスラと繋がっていくし
そういう時間を意図的に作りたくて
僕はここにやってくる。

頭の中に浮かぶ言葉を
ああだ、こうだ、と考えて
丁寧に、綺麗に紡ぐつもりなんて
これっぽっちもなくて。

「自由」で在りたいから
「好き」にしていたいから
書くために集中できる場所を探して
いつもいろいろな場所で書く。

本当は雑念がなく、家で書ければ
それはそれで進むこともあるんだけれど
平日は家にこもる生活になって3か月経つから
土日になっても家の中にいるのは息苦しくなって
強制的に「書け」っていうモードにするためにも
出かけることにして、いま、外で書いている。

思えば、1年前は仕事していなかった。
ただ何もせず、病気の療養をし続けて
答えのない自問自答を繰り返して
結局もちろん欲しい「答え」なんて出ないから
週の半分以上は絶望して
残りの半分はそんな感情を遠ざけるために何もしなかった。

「何もしない」というのは楽だからいいよねって思うかもしれないけれど
「必要とされない」ということは、実際になってみると、かなり絶望的な感覚で
それこそ「生きている意味ってなんだっけ」って、思うこともあって。

まあまあな年齢になって、こんな状況になって
周りにいた人もほとんどいなくなって
いつの間にか「助けて」も言えなくなって
本当に苦しい時間を、過ごしていた。

あの日々に比べれば
いまは幾分かマシな気もするし
上には上が、下には下が、ということを思うこともある。


ちょっとだけ上に登らせてもらって
そこから最底辺にまで落ちて
それでも生きていいのかを問い正し続けて
結果として、なんとか生にしがみついて
夕方のニュースに自分の名前が載らないで済んでいるのは
まだ自分が生きることに意味があるのかなと、思ってもいる。

誰に見られなくとも
自分は書く人で、書きたい人だから
とにかくがむしゃらに、書いてみたいと思って。

昨年はそう決意して、100日連続で書いてみたけれど
それで何かを手にしたこともなく
100日連続で言葉を紡いだ事実はちゃんと残って
そこからまた、少し、言葉から遠ざかった。


いま、また、言葉との距離が近くなってきた。

別に、応援してくれる人はいない。

見てくれる人は、たまにひとり、いるか、いないか。

少し前にも書いたけれど
自分のために、書いているところが、大きい。
自分で自分を繋ぎ止めるための、言ノ葉。


3か月後、自分は何をしているんだろう。
半年後、自分はどこにいるんだろう。
1年後、僕は生きているんだろうか。

このままでいいと思っていないし
ずっと変わりたいと思っているし
どうにか生きていたいとも、いまは少し思えている。

どうなるのか、怖い。
怖くとも、進むこと。
やってみること、言葉を紡ぐこと。

どこかで何かがまた繋がって
自分が居たかった世界線に繋がれたら
その時に自分の言葉が錆びていたら嫌だから
どんな表情をしていようと、僕は自分のナイフを研ぐ。


そういや、絶望していたあの日。

「リモートワークできる仕事したいな」って言ってたな。

結局、形はどうあれ、いま、僕はリモートワークしてる。
なんか知らんうちに、叶えるんだよな、いつも。
大きいことも、小さいことも。

いま僕は、自前のMacで言葉を紡いでる。
少しは面白いこと、起こるもんだ。

生きるって、不思議。


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